え、練習は順調に進んでいた。足が多少|跛《びっこ》の青年がでてくると、教官は壇上から彼を見下ろした。
「職業は写真屋か」
「左様でございます」青年は腰の低い商人口調でひょこんと応《こた》えた。
「よせよ、ハイ、で結構だ。折角、今|迄《まで》いい気分でいたのに、そんな返事されてはげっそりしてしまう」と教官は苦笑いした。この告白で正三はハッと気づいた。陶酔だ、と彼はおもった。
「馬鹿馬鹿しいきわみだ。日本の軍隊はただ形式に陶酔しているだけだ」家に帰ると正三は妹の前でぺらぺらと喋《しゃべ》った。
今にも雨になりそうな薄暗い朝であった。正三はその国民学校の運動場の列の中にいた。五時からやって来たのであるが、訓示や整列の繰返しばかりで、なかなか出発にはならなかった。その朝、態度がけしからんと云って、一青年の頬桁《ほおげた》を張り飛ばした教官は、何かまだ弾む気持を持てあましているようであった。そこへ恰度《ちょうど》、ひどく垢《あか》じみた中年男がやって来ると、もそもそと何か訴えはじめた。
「何だと!」と教官の声だけが満場にききとれた。「一度も予習に出なかったくせにして、今朝だけ出るつもりか」
教官はじろじろ彼を眺めていたが、
「裸になれ!」と大喝《だいかつ》した。そう云われて、相手はおずおずと釦《ボタン》を外《はず》しだした。が、教官はいよいよ猛《たけ》って来た。
「裸になるとは、こうするのだ」と、相手をぐんぐん運動場の正面に引張って来ると、くるりと後向きにさせて、パッとシャツを剥《は》ぎとった。すると青緑色の靄《もや》が立罩《たちこ》めた薄暗い光線の中に、瘡蓋《かさぶた》だらけの醜い背中が露出された。
「これが絶対安静を要した躯《からだ》なのか」と、教官は次の動作に移るため一寸《ちょっと》間を置いた。
「不心得者!」この声と同時にピシリと鉄拳《てっけん》が閃《ひらめ》いた。と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸《うな》りを放ちだした。その、もの哀《がな》しげな太い響は、この光景にさらに凄惨《せいさん》な趣を加えるようであった。やがてサイレンが歇《や》むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、
「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであった。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩
前へ
次へ
全33ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング