壊滅の序曲
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)風情《ふぜい》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)本川|饅頭《まんじゅう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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 朝から粉雪が降っていた。その街に泊った旅人は何となしに粉雪の風情《ふぜい》に誘われて、川の方へ歩いて行ってみた。本川橋は宿からすぐ近くにあった。本川橋という名も彼は久し振りに思い出したのである。むかし彼が中学生だった頃の記憶がまだそこに残っていそうだった、粉雪は彼の繊細な視覚を更に鋭くしていた。橋の中ほどに佇《たたず》んで、岸を見ていると、ふと、「本川|饅頭《まんじゅう》」という古びた看板があるのを見つけた。突然、彼は不思議なほど静かな昔の風景のなかに浸っているような錯覚を覚えた。が、つづいて、ぶるぶると戦慄《せんりつ》が湧《わ》くのをどうすることもできなかった。この粉雪につつまれた一瞬の静けさのなかに、最も痛ましい終末の日の姿が閃《ひらめ》いたのである。……彼はそのことを手紙に誌《しる》して、その街に棲《す》んでいる友人に送った。そうして、そこの街を立去り、遠方へ旅立った。

 ……その手紙を受取った男は、二階でぼんやり窓の外を眺《なが》めていた。すぐ眼の前に隣家の小さな土蔵が見え、屋根近くその白壁の一ところが剥脱《はくだつ》していて粗《あら》い赭土《あかつち》を露出させた寂しい眺めが、――そういう些細《ささい》な部分だけが、昔ながらの面影を湛《たた》えているようであった。……彼も近頃この街へ棲むようになったのだが、久しいあいだ郷里を離れていた男には、すべてが今は縁なき衆生《しゅじょう》のようであった。少年の日の彼の夢想を育《はぐく》んだ山や河はどうなったのだろうか、――彼は足の赴《おもむ》くままに郷里の景色を見て歩いた。残雪をいただいた中国山脈や、その下を流れる川は、ぎごちなく武装した、ざわつく街のために稀薄《きはく》な印象をとどめていた。巷《ちまた》では、行逢《ゆきあ》う人から、木で鼻を括《くく》るような扱いを受けた殺気立った中に、何ともいえぬ間の抜けたものも感じられる、奇怪な世界であった。
 ……いつのまにか彼は友人の手紙にある戦慄について考えめぐらしていた。想像を絶した地獄変、し
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