いいな、と、ひとり頷《うなず》くのであった。
三十も半ばすぎの康子は、もう女学生の頃の明るい頭には還《かえ》れなかったし、澄んだ魂というものは何時《いつ》のまにか見喪《みうしな》われていた。が、そのかわり何か今では不貞不貞《ふてぶて》しいものが身に備わっていた。病弱な夫と死別し、幼児を抱《かか》えて、順一の近所へ移り棲《す》むようになった頃から、世間は複雑になったし、その間、一年あまり洋裁修業の旅にも出たりしたが、生活難の底で、姑《しゅうとめ》や隣組や嫂《あによめ》や兄たちに小衝《こづ》かれてゆくうちに、多少ものの裏表もわかって来た。この頃、何よりも彼女にとって興味があるのは、他人のことで、人の気持をあれこれ臆測《おくそく》したりすることが、殆ど病みつきになっていた。それから、彼女は彼女流に、人を掌中にまるめる、というより人と面白く交際《つきあ》って、ささやかな愛情のやりとりをすることに、気を紛らすのであった。半年前から知り合いになった近所の新婚の無邪気な夫妻もたまらなく好意が持てたので、順一が五日市の方へ出掛けて行って留守の夜など、康子はこの二人を招待して、どら焼を拵えた。燈火管制の下で、明日をも知れない脅威のなかで、これは飯事遊《ままごとあそび》のように娯《たの》しい一ときであった。
……本家の台所を預かるようになってからは、甥《おい》の中学生も「姉さん、姉さん」とよく懐《なつ》いた。二人のうち小さい方は母親にくっついて五日市町へ行ったが、煙草の味も覚えはじめた、上の方の中学生は盛場の夜の魅力に惹《ひ》かれてか、やはり、ここに踏みとどまっていた。夕方、三菱工場から戻って来ると、早速《さっそく》彼は台所をのぞく。すると、戸棚《とだな》には蒸パンやドウナッツが、彼の気に入るようにいつも目さきを変えて、拵えてあった。腹一杯、夕食を食べると、のそりと暗い往来へ出掛けて行き、それから戻って来ると一風呂浴びて汗をながす。暢気《のんき》そうに湯のなかで大声で歌っている節まわしは、すっかり職工気どりであった。まだ、顔は子供っぽかったが、躯《からだ》は壮丁なみに発達していた。康子は甥の歌声をきくと、いつもくすくす笑うのだった。……餡《あん》を入れた饅頭《まんじゅう》を拵え、晩酌の後出すと、順一はひどく賞《ほ》めてくれる。青いワイシャツを着て若返ったつもりの順一は、「肥《ふと》
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