それから長く休刊だつた雑誌が運転しだすと急に気忙しさが加はつた。雑誌社は何時出かけて行つても、来訪者が詰めかけてゐたし、原稿は机上に山積してゐた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があつた。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉み苦茶にする」と悲鳴をあげた。
(人間が人間を……)。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のやうに戦いてゐた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それらが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるへさせた。一人でも人間が僕の眼の前にゐたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散つた。僕は人間が滅茶苦茶に怕かつたのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだつた。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのやうに熱烈に人間を恋し理解したく思つてゐたことか。
 ところが今では、今でも僕が人生に於てぎこちないことは以前とかはりないが、それでも、人間と会ふとき前とは違ふ型が出来上つてしまつた。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスヰツチを入れる。すると、さつと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチツクに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知つてゐてくれるのだらうか――さういふ反省をする暇もなく、僕の前にゐる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごつちやになつて朧な暈のやうに僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡り込んでしまひさうだ。と突然、戦慄が僕の背筋を突走る。
「いけない、いけない、あの向うを射抜け」
 何万ボルトの電流が叫びとなつて僕のなかを疾駆するのだ。
(人間が人間を……。その少女にとつて、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶の持続に他ならなかつた。すべてが奇異に縺《もつ》れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼ない切ない魂は徒らに反転しながら泣号する。「生きてゐること、生きてゐることが、こんなに、こんなに辛い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽やかなものが訪れる。それから向側にぽつかりと新しい空間が見えてくる。)
「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしてゐた。そ
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