火の唇
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)縺《もつ》れ
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いぶきが彼のなかを突抜けて行つた。一つの物語は終らうとしてゐた。世界は彼にとつてまだ終らうとしてゐなかつた。すべてが終るところからすべては新らしく始まる、すべてが終るところからすべては新らしく……と繰返しながら彼はいつもの時刻にいつもの路を歩いてゐた。女はもうゐなかつた、手袋を外して彼のために別れの握手をとりかはした女は……。あの手の感触は熱つかつたのだらうか、冷やりとしてゐたのだらうか……彼はオーバーのポケツトに突込んでゐる両手を内側に握り締めてみた。が何ものも把へることは出来なかつた。影のやうな女だつたのだが、彼もまた女にとつて影のやうな男にすぎなかつたのだ。影と影はひつそりとした足どりで濠端に添ふ舗道を歩いてゐた。そして、最後にたつた一度、別れの握手をとりかはした、たつたそれだけの交渉にすぎなかつた、淋しい淋しい物語だつた。
いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追ふやうに、彼は濠端に添ふ舗道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔らかな影や、傍にある静かな水の姿が彼をうつとりと涙ぐまさうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴の踵をかへして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかつて、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する舗装道路や高層ビルの一連が、その上に展がる茜色の水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終つてはゐないのだ。世界はあの時もまた新しく始まらうとしてゐた。あの時……原子爆弾で破滅した、あの街は、銀色に燻る破片と赤く爛れた死体で酸鼻を極めてゐた。傾いた夏の陽ざしで空は夢のやうに茫と明るかつた。橋梁は崩れ堕ちず不思議と川の上に残されてゐた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽と風に頭髪を飜へしながら自転車でやつて来る若い健康さうな女を視た。それは悲惨に抵抗しようとする生存者の奇妙なリズムを含んでゐた。だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははつきりとしないが、広漠たる空間を横切る新しい女の幻影が閃いた。
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