今も彼が見上げる空の一角を横切つてゆくやうだ。茜色の水々しい空には微かに横雲が浮んでゐて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。

 彼がその女と知遇つたのは、ある会合の席上であつた。火の気のないビルの一室は煙草の煙で濛々と悲しさうだつた。女は赤いマフラをしてゐた。その眼はビルの窓ガラスのやうに冷たかつた。二度目に遇つたのも、やはりその侘しいビルの一室であつた。会合が終つたとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。
「わたしと交際つてみて下さい。またいつかお会ひ致しませう」
 みて下さい……といま言葉が彼の意識に絡まつた。が、彼はさり気なく冷やかに肯いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さへ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮してゐた。そんな部屋の片隅でノートに書いてゐた。
〈踏みはづすべき階段もなく、足は宙に浮いてゐる。もしかすると彼は堕落してゐるのだらうか。だが、僕の眼は真さかさまに上を向いてゐて、堕落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓喜も湧かない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉
 女は彼と反対側の電車で帰つた。淋しさうな女だが、とにかくああして帰つて行く場所はあるのかと、何となしに彼は吻とした。人間が地上にはつきりした巣をもつていること(それは妻が生きてゐた頃なら別に不思議でもなかつたが)今では彼にとつて殆ど驚異に近かつた。あの時……、彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちると、その時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のやうに揺れ迫つた。その時から、彼は地上の巣を喪ひ、空間はひつきりなしに揺れ返つたのだ。……火焔のなかを突切つて、河原まで逃げて来ると、そこには異形の裸体の重傷者がずらりと並んでゐる。彼はそのなかから変りはてた少女を見つける。それは兄の家の女中なのだ。彼はその時から、苦しがる少女に附添つて面倒をみる。ふくふくに腫れ上つた四肢を支へてやると、少女の躯ともおもへぬほど無気味だが、水を欲しがる唇は嬰児のやうに哀れだ。やがて、二晩の野宿の揚句、彼は傷いた兄の家族と一緒に寒村の農家に避難する。だが、この少女だけは家に収容しきれず村の収容所に移される。ある日、彼はその女中のために蒲団を持つて収容所を訪れる。板の間の筵の上にごろごろしてゐる重傷者
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