手はほんとに鉈《なた》を振上げて彼の手を覘《ねら》っているのだ。彼は縋りつくように、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくように、波間から……波間から……波間から……。
 宿なしの彼は同室者に対する気兼ねから、饉《ひも》じい体を鞭《むち》打ちながら、いつも用ありげに巷《ちまた》の雑沓《ざっとう》のなかを歩いていた。金はなく、彼の関係している雑誌も久しく休刊したままだった。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらえるかもしれないという微かな望みがあったが、いつも波間に漾っているような気持で雑沓のなかを歩いていた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたっぷり降り灑《そそ》ぎ、人通りは密になっていた。省線駅の広場の方まで来ていたのだ。その時、恰度《ちょうど》電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散って行くのだった。彼は何気なく一|塊《かたま》りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカッと一直線に閃《ひらめ》くものがあった。赤いマフラをした女の眼だ。……あの女かもしれないと思った瞬間、彼はもう視線を他へ外《そ》らしていた。が、ものの三十秒とたたないう
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