でも彼のなかに突立っていた。
 わたしと交際ってみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思い出そうとしていた。その眼は祈りを含んだ眼だろうか、彼のなかに突立ってくるだろうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のようにおもえた。
 轟音《ごうおん》もろとも船は転覆する。巨濤《きょとう》が人間を攫《さら》い閃光《せんこう》が闇《やみ》を截切《たちき》る。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶように波を掻《か》き分け、喚《わめ》くように波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はいる。しぶきが頬桁《ほおげた》を撲《なぐ》り、水が手足を捩《も》ぎとろうとする、刻々に苦しくなってゆく波に、ふと仄明《ほのあか》りに漾《ただよ》っているボートが映る。と、その方向へひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動《ぜんどう》してゆく。が、漸《ようや》く近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、忽《たちま》ち頭上で鋭い怒声がする。
「離せ! この野郎!」
 だが、彼は必死で船の方へ匐《は》い上ろうとする。
「こん畜生! その手をぶった切るぞ!」
 いま相
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