ちに、彼は後から呼び留められていた。
「平井さん……かしらと思いました」
女はそう云ったまま笑おうとしなかった。彼も無表情に立っていた。
「今日はこれから訪《たず》ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢いできるでしょう」
ふと女は忙しそうに立去って行った。彼も呼び留めようとはしなかった。
そのビルの一室が開けてもらえるかどうかはっきりしなかったが、彼の全財産を積んで一台のリヤカーはもうその建物の前に停《とま》っていた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々《もうもう》と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下して云った。
「部屋なんか開ける約束になっていない」
彼はドキリとした。とにかくKに逢ってみれば解《わか》ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらわねば、差当って他へ持って行ける所もなかった。
「それなら土間のところへ勝手に置きなさい」
夜具と行李《こうり》とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行った。忽《たちま》ち揺れ返る空間が大きくなっていた。
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