かし出す。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういうものか少し顛動《てんどう》気味であった。
 縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊《かたまり》があり、やや彼方《かなた》の鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつがえった脇《わき》に、大きな楓《かえで》の幹が中途からポックリ折られて、梢《こずえ》を手洗鉢《てあらいばち》の上に投出している。ふと、Kは防空壕《ぼうくうごう》のところへ屈《かが》み、
「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし」と変なことを云う。
「いや、川へ行きましょう」と私が云うと、Kは不審そうに、
「川? 川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら」と嘯《うそぶ》く。
 とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整わなかった。私は押入から寝間着をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団《ざぶとん》も拾った。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑嚢《ざつのう》が出て来た。私は吻《ほっ》としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔《ほのお》の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であった。
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