私は最後に、ポックリ折れ曲った楓の側を踏越えて出て行った。
その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤《うるお》いのある姿が、この樹木からさえ汲《く》みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪《うしな》って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた。
Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除《よ》けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許《あしもと》が平坦《へいたん》な地面に達し、道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の蔭《かげ》からふと、「おじさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅《おび》えきった相で一生懸命ついて来る。暫《しばら》く行くと、路上
前へ
次へ
全30ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング