」と声をたてた。名前を呼ぶつもりで踝をかへしかけたが、直吉はその男の名前をどうしても思ひ出せなくて追ひかけて行くのを、やめてしまつた。まだ復員服の姿で素足に下駄をはいてゐた。姿は生気がなかつたが、それでも、頭髪だけは、リーゼント[#「リーゼント」は底本では「リーゼんト」]型にして、こはさうな毛は油で光つてゐた。若い兵隊だつた。六年も内地を見た事がないと云つてゐた。船で一緒になつただけの知りあひだつたが、人柄のあたゝかい兵隊だつた。その男は少しつつ遠ざかつて行く。もう二度とその男には逢へさうにもない。追ひかけて行つて肩を叩いてやりたかつたが、甲板で雀を逃がした時のやうなあきらめ方で、直吉はその男の遠ざかる後姿を凝視めたままで動かなかつた。直吉はいまではすつかり孤独の愛好者になつてゐた。その兵隊の名前さへ記憶出来なかつた忘却を、直吉は、自分でも、つくづく年を取り呆けてしまつたと苦笑した。お互ひに昔を今に呼び戻す必要はないのだ。その場の感傷で、わざわざさつぱりと、お互ひに失つた過去を、あの男の前に立つて、いまさら鏡のやうに見せ合ふ必要はないのだ。直吉は手近な所に店を出してゐる、新聞売りの女か
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