がなかつた。橋の上は肩をすれすれにして歩くやうな人の波である。前田の細君の出産祝ひを買ひたいと思つた。S橋の上から水の上を覗いたが、今日はあの広告マンは浮いてゐなかつた。汚れた石油色の水が、河底をたづな模様に流れてゐた。街の雑沓はひしめき溢れて、少しも形に変化がないやうだつたが、よく見てゐると、水が流れ込むやうに、次から次と人の顔は変つてゐた。公園寄りの橋のたもとには、学生姿のアルバイトが、ノートや大きい風船を手にして呆んやり立つてゐた。公園ぎはの交番では、腰にピストルのケースをさげた若い巡査が、四五人寄りあつて、ものものしい表情で話しあつてゐる。捕虜生活で考へてゐた程の廃墟ではなかつたのだが、何となく四囲は昔とは変つて来てゐた。三角くじを売る派手なペンキ塗りの小舎のまはりは、花吹雪のやうにこまかい紙片が散らかつてゐる。にぶい朝の太陽が黄いろい反射を照りかへして、珍しくぽかぽかと暖い。すれ違ふ男も女も、無意識に口辺に嘲笑的な小皺を寄せて歩いてゐた。その表情はどれもこれも、精神分裂の継母の表情に似ている。その通行人の群の中に、直吉はふつと、一緒の船で戻つて来た、兵隊の姿をみとめた。「あツ
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