女へ対する本能は、頭の中で暴れまはつてゐながら肉体は仮死状態に陥つてしまつてゐた。継母の精神分裂病に何処か似通うた戦争の被害だと、直吉はいまこそはつきりと思ひ知らされたのだ。衛生兵であつた直吉は、多くの戦争精神病も見て来たが、それは錯乱状態になつた兵隊のみを精神病と思ひ過してゐたに過ぎない。自分のやうなものはいつたい何と云ふのであらうかと、直吉は、耳の底にさうした患者の蜂の巣をこはしたやうな唸り声のするのを、うゝん、うゝんと聴いた。耳を振つてみる。戦場での色々な音がかすかに聴える。収容所でも年を取つた兵隊が激しいノルマに耐へられなくてうつ[#「うつ」に傍点]病になつて行き、ひどい取越苦労にとりつかれて、自殺したものも幾人かあつた。
 直吉は、厭な思ひ出を払ひのけるやうに、満々と水を張つた洗面器に、顔をつゝこんだ。しびれるやうに水は肌に沁みる。その水の中で、どれだけ息が出来ないかと、呼吸を抑制してみる。広告マンのあの眼のつぶり方が、瞼を走つた。呼吸の抑制は息苦しくなり、痛烈な孤独が直吉の瞼に涙となつて突きあげて来た。ざつと顔をあげて、濡れた顔を、汚れたハンカチで拭いた。眼が腫れぼつたく、
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