。鏡の中の男の顔は、かつての辛酸をなめつくした自己であり、もうその顔は、自分のもとの人生へ帰還する事の出来ない不具者的な表情を持つてゐた。哀れな長い戦争だつたと思ふ。自分を支配する知覚を失つた人間の顔を、直吉は、呆然とみつめた。昨夜の里子との交渉も、自分を失望させ、里子に嘲はれるだけの痴戯にひとしいものであつたと知つた。長い戦争での、女を空想する悪い習慣が、直吉の肉体をすつかり駄目にしてしまつてゐる。街の女と交渉のある時にも、かうした淋しさはあつたが、それは里子にも同じであつたと云ふ二重の淋しさになり、汚れた鏡の中の顔を、直吉はぢいつと覗き込んだ。あらゆる欲望を抑制された兵隊の、なれの果てが、そこに呆んやり立つている。「まだ若いのに、どうしたのよ」と里子に云はれた言葉が、直吉には耳について離れない。 ――戦争のさなかにも、また、長い捕虜生活中にも、突然精神錯乱をおこす兵隊があつたが、砲弾炸裂の衝撃や、囚れのなかの死の恐怖や、仲間同士の葛藤なぞが原因で、ふつと狂ひ出す兵隊があつた。直吉は、自分もまた戦争精神病の一種になつて戻つて来たのではないかといふ、地滑りのやうな不安を持つて鏡を見た。
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