惑さうに、掴まれた手をふりほどきながら、「厭」と強く云つた。直吉は里子の声がきびしかつたので、思はず掴んだ手を離した。憤然となりながら、脆い気持ちになり、その手でコツプを掴んでぐいぐい飲み干して、唇の泡を手の甲でこすりながら、「何が厭なンだ」とぎらぎらした眼が里子を睨んだ。里子は後しざりしたいやうなそぶりで、また肩掛けを羽織り、
「私、それよか、一寸、電話かけて来るわ」
と云つた。電話を掛けに行くと云ふのは口実で、急に気が変つて、泊りたくなくなつてゐるに違ひないのだ。直吉は返事もしなかつた。泊つて貰はなくてもよかつたし、自分も亦泊る気にはなつてはゐない。里子は、生まれついた性根で、面白をかしく暮したいのであらうし、こんな貧弱な男なぞにはかまつてはゐられないのかも知れない。亡くなつた冨子が、たいこ焼を食べろと云つて、素直に食べなかつた少女時代の里子の頑固さが、直吉には鮮かに記憶にあつた。――里子は里子で、また、違つた気持ちで、静かに直吉の焦々しさを観察してゐたのだ。長い間、戦争に行つて、自分だけが苦労をして戻つたやうな太々しさでゐる直吉に[#「直吉に」は底本では「直吉」]対して大きな不
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