。このやうな見本があると云ふ姿を、世界に示してゐるやうな、一つの民族の広告マン振りが聯想されて、それに就いての自覚もない、高見の見物衆の心理が、直吉には、をかしくてならないのだ。有害無益な群衆を尻目に、泥河に寝転んでゐるあの広告マンの姿は、直吉には深く印象づけられた。あすこまで落ちこんで初めて平和な境地が発見出来るのかも知れない。流れる雲に愛撫されるやうに、水に写つた雲の上に、悠々と寝転んで、あの広告マンは灯のついた食卓に待つてゐる幾人もの子供の優しい声を聞いてゐるのかも知れない。「待つておいで、お父さんは今日の日当を貰つて、土産を買つてやるよ‥‥」そのやうな事を考へてゐたのかも知れないのだ。細君は時計を見てゐるに違ひない。完壁[#「完壁」はママ]なものだ。野次馬は、この完壁[#「完壁」はママ]なものの風懐に触れるよりも、まづ自分はあの泥河にまではまり込まなかつた幸福感を味つてゐるに違ひない。俺はまだ、あの男よりはいゝ生活だと‥‥。
 ビールの酔ひのせゐか、直吉は少しつつ昂奮して来た。甘い香水の匂ひが慾情を責めたてて来た。矢庭に直吉は手をのばして、里子の手を掴んだ。里子は吃驚したが、迷
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