直吉は悠然と喋つた。幾度となく忿怒を通り越して生きてきた直吉は、木の根株のやうな腰の坐り方でもある。
「全く、人間つてものは正気ぢやアない。正気ぢやないよ。豪さうな事を云つてるが、同じ事のむし返へしだ。癇癪もちで、おべつか屋で、いざ事が起きてみろ、心の中でひいひい悲鳴をあげる癖に、歩く時は我関せずえんだ。合点のいつてる顔してる奴にかぎつてろくなのはゐないね。女は女で新しもの好きで、二度と昔の男には見向きもしねえ‥‥。お前、女は出来たのかい?」
 直吉がしびれた肘をはづして、にやにや笑ひながら隆吉を見上げた。
「近いうちに結婚しますよ‥‥」
「ほゝう。そりやアいゝなア。べつぴんかね?」
「さア、どうですかね。僕には満足ですがね‥‥」
「そりアいゝな、大事にしなくちやいけねえな。それで、おふくろが邪魔になるンぢやないのか?」
「いや、僕は近々にこゝを出て行きますよ」
 直吉はあゝとのびをして、部屋の隅の継母の寝顔に眼をやつた。能面のやうにてらてらして、汚れた手を胸の上に組んですやすや眠つてゐる。隆吉に捨てられた父と継母はどうなつてゆくのかと直吉は、その寝姿に哀れな気がした。自分もこゝを逃げ
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