な。何でもねえぢやアねえか、こんな世の中、いつたい誰のものなンだい?」
「僕は、たゞ自分で働いて、自分で食つていければいゝンですよ‥‥」
「そりやアさうさ。それが一番いゝ事なンだ。俺だつて、おだやかに、のんびりと、もう何も考へないで静かに暮したい‥‥。二度と戦争にやア行きたくねえし、お前だつて、馬鹿々々しい目を見たンだもンな‥‥」
 隆吉は誰かに貰つたと見えて、水色の派手なジヤケツを着込み、油で光つたリーゼントの頭を板壁に凭れさせて、立つて膝を抱きかゝへて[#「立つて膝を抱きかゝへて」はママ]煙草を吸つてゐる。色の悪い顔色で、眼尻が上つてゐるせゐか、何となくボーイ面して澄してゐる。直吉は片肘ついて寝転び、電気の下で新聞を拡げてゐたが、油気のない頭髪が広い額にかゝり、くぼんだ眼はぢいつと店の方へ向いたまゝだつた。いまだに復員服を着て、首によれよれのひろひものの白いマフラを巻いてゐる。頬骨がとがつて、色の黒い唇はむくれて、昔のおもかげはあとかたもないほどだつた。ひどく老け込んで、四十を過ぎた風貌に見える。
 鈍重で粘り強く、幾度も兵隊生活で制裁を加へられた人間特有の、がつしりした体つきで、
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