吉にとつては、今宵の銀座の街は幻の街だつた。さつきの、河底の広告マンの必死の生き方が、何故ともなく直吉の心の中をゑぐつて来る。春か、秋かも、季節のない都会の街路に、頬に沁みるやうな冷い風が吹きつける。夕暮の雲一つない水色の空に、平凡な風景を見る気がした。何処へ行くあてもなかつたが、PXの前まで歩いて、さて、どの方向に電車道を渡るべきかと、直吉が立ち停ると、耳のそばで、聞きなれない異国の言葉が聴えた。直吉は振り返へつた。若い進駐軍の兵隊が何人も立つてゐる。どの兵隊も、健康さうで赧い顔をしてゐた。身だしなみや、躾のいゝすつきりした姿で、それぞれの仲間同士と話しあつてゐる。そこだけが直吉には別世界のやうだつた。何の恐怖もなく、そこへ立つてゐられる事が不思議だつた。それに、自分のみすぼらしさが卑下されるのも。その兵隊達を見て、初めて、直吉は自分の立ち場を知るのだ。線路の十字路になつた、分岐点の処で、日本人の巡査がゴオ・ストツプの合図を不器用な手つきでやつてゐる。その合図にあはせて、自動車や電車の流れが、十文字に滑走して流れて行く。直吉は珍しいものでも見るやうに、暫く、その騒々しいゴオ・ストツプ
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