人ではどうにもならなかつたのよ。――何も好きこのんで、働きに出てゐるわけぢやありません。私だつて、一軒の家に貴方と住みたいンですけれど、住めないのよ。何も判らないから、貴方はそんな無理をおつしやるけれど、これが敗戦だと思つて、私、あきらめて働いてゐますの‥‥」里子はさう云つて、怒つてぶりぶりしてゐる直吉を、なだめにかゝるのだ。何時も、別れる時の里子の言葉は、こんなふうにきまつてゐた。二人とも別々の檻に入れられた、雌雄の動物のやうに、少しも人間らしい自由はなかつた。――露店と、商店のショウ・ウインドウに挟まれた狭い歩道を、直吉は人波に押されながら歩いてゐる。直吉は、不思議な外国の街を歩いてゐるやうな気がした。出征当時の乏しい街ではなかつた。何処から、こんな街がにゆつと現はれたのかが不思議だつた。不安もなく人間は歩いてゐる。露店も商店も沢山の品物を積み上げて、通行の人々の眼を呼びとめてゐる。沢山の人間の抜け殻が、歩いてゐるやうだつた。何が幸でこんなに沢山の人間が歩いてゐるのか、直吉にはさつぱり判らなかつた。ノボオシビルスクにも、こんな賑やかな街はなかつた。すつかり浦島太郎になりきつてゐる直
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