人間の素面にめぐりあつたやうに、直吉は、収容所での長い悪習を、ふつと後から平手をぴしりつと食つたやうな気がしてやめた。
「あんたも、私も不幸な奴だよ」
継母の膝小僧を裾でかくしてやりながら、直吉は心から、自分を投げ出してみじめな奴だと自分に吐きかける。里子は、いまでは他人になつてしまつてゐる。どうせ、よりの戻る間柄ではないだらうけれど、里子の顔が馬鹿にみたくなつた。里子から来た手紙を拡げて、何度も文字を一つ一つ丁寧に読み返へした。里子を考へる事は一種の快楽に近い気持ちであつた。直吉は、手紙の上に顔を伏せて泣いた。泣いてゐると、淋しい幸福感でいつぱいになつてくる。ノボオシビルスクにゐた頃も、時々、かうした虚しい思ひに耽つた。[#「耽つた。」は底本では「耽つた、」]同じ収容所仲間で、華族の息子がゐたが、「どうも、人間つて奴は、この幸福を考へる事だけで、生きる望みをつないでゐるやうなもンだ」と云つてゐた。直吉は継母の泣いてゐる顔をぢつと眺めてゐたが、さつきの卑しい思ひを誘はれたいやらしさが、継母の顔を見てゐるうちに腹立たしくなつて来た。
二三日してから、里子は本当に尋づねて来た。すつかり
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