う‥‥。冥土へ行つて、吻つとしてるわね。きつとそうよ。生きてちや息苦しい世の中ですもの‥‥」
 兵隊の心中と聞いて、直吉は身につまされる気がした。兵隊の身分で芸者と心中をするなぞとは、いまの世間は非国民として眉をひそめる事件に違ひない。直吉は、心中の美しい場面を空想した。むしろ同情的であり、羨しくもあつた。何の為に生きてゐるのか、此頃は規則づくめの責めたてられるやうな生活だつたので、直吉も幾分か生きてゐる事にやぶれかぶれな気持ちだつたのだ。――日々の気持ちが荒み果てて来ると、寮では、精神修業に唐手が流行しだしたが、唐手をやり出してから、便所の壁には拳大の穴が明き、障子の桟は折れ、硝子は破られて、寮内の所々方々が、誰のしわざともなく荒されて行つた。時には畳を一枚々々はすかひに剪られてゐる時もあつた。部屋々々の品物も、ひんぴんと紛失した。喧嘩は絶え間なかつたし、女と見れば追ひかけまはして手込めにするものもあつた。若いものにとつては、生死の問題に就いては、あまりに無雑作であり過ぎたために、新聞に出ない事件が、直吉の工場にも幾つかあつた。盗みや、強姦や、殺人が、直吉の工場にもひんぴんと演じられ
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