に笑ひかけたが、少年達は不快さうな表情をして、哄笑しながら行つてしまつた。直吉は、いま、さうした昔の或日の自分の生活を、思ひ出してゐたのだ。あんなに恋ひこがれた東京へ戻つて来ると、妙な事には、時々ノボオシビルスクの夢を見て、涙を流してゐる時があつた。濠洲兵は、直吉に並んで黄いろい木柵によりかゝつて、頬杖ついて、呆んやりと、十字路を流れる人波を見てゐた。何を考へてゐるのだらう。見るともなく見てゐると、まだ若いぴちぴちした兵隊だつた。無邪気な表情である。鼻つきといひ、眼のくぼみといひ、横顔が仲々の美男子であつた。濠洲兵は、貧相な日本人に注意されてゐるのを知ると、ふつと、直吉の方へ視線を向けて、何の表情もなく、さつと人波の中へまぎれ込んで行つた。直吉は兵隊の視線を受けて、突差に笑ひかけようとしたが、何と云ふ事もなく、ノボオシビルスクの、ソ連の少年の眼を思ひ出してゐたのだ。どうにも仕様のない、民族的な一種の卑下を、直吉は、これは宿命なのだと思はないわけにはゆかなかつた。笑ひかけた微笑の眼のやりばに困つて、直吉は前よりも不機嫌で木柵に凭れてゐた。もう眼は何も見てゐなかつた。暫くすると、またアメリカ兵が、直吉の頬杖ついてゐるそばに、飛び上つて、楽々とした腰の掛けかたで、大きい手で木柵を掴んで体を支へた。ミルク色の大きい手だ。小さい額縁のなかに、女の首を浮彫りにした金色の指輪を小指にしてゐた。腕にも金色の時計をはめてゐる。ぢいつとその時計を見ると、五時十分である。時計のぐるりには毛がもしやもしやと生えてゐた。平べつたい大きい爪はたんねんに磨かれて清潔だつた。そつと見上げると、透きとほるやうな灰色の眼をしてゐた。柔かい白つぽい金髪で、皮膚は酔つたやうに赤かつた。眼の下を通る人波を眺めてゐる。誇張した微笑の眼で、直吉はその兵隊を観察してゐたが、兵隊は別に注意もしなかつた。習慣的に微笑の顔をつくつてゐる自分の浅ましさに、直吉はまた民族的な宿命を感じる。ソ連に捕虜になつてゐた日本の兵隊は、ぢいつと見てゐると、[#「、」は底本では「、、」]兵隊服をとほして、大工とか、魚屋とか、会社員とかの職業がにじみ出てゐた。それぞれの兵隊に、およその勘を利かす事は出来たのだが[#「たのだが」は底本では「のだか]、かうした皮膚の違ふ兵隊を見てゐると、その一人一人の職歴を見抜く事は困難でもあつた。言葉が自由に語れたならば「どうでせうか、少しばかり、貴方とお喋りをしたいのですが‥‥」と話してみたかつた。肉づきのしまつた腰から脚へかけての洋袴は皺一つなかつた。長い脚を柵の下すれすれにぶらさげてゐる。直吉はみすぼらしい自分の姿が佗しかつた。倚りかゝつてゐる木柵に、二人は何の関係もない並びかたでゐたが、かつて、兵隊だつた直吉は、隣りのアメリカ兵に対して、無関心ではゐられなかつた。率直で感じのいゝ兵隊のそばに立つてゐる事だけで、直吉は対立的な気持ちにはなれない。雑沓する一つの場所で、暫く、直吉は、心に浸みるやうな孤独を味つてゐた。人格とか、威厳とか、何一つ調和しない敗者の生活が、眼の前に渦をなして、ごみごみと雑沓の中に流れてゐる。平板な敗者の安心感だけで、どの東京人の顔も、懐疑的な表情で歩いてゐるものはない。嘔吐をしたあとのすがすがしさである。――さつきの河底に[#「さつきの河底に」は底本では「さつきの 河底に」]浮いてゐた広告マンの勇気が、直吉には、馬鹿に羨しかつた。我一人行くの勇気を持つた、あの広告マンに対して、直吉は、あすこまで行けば、気楽なのではないかと思つた。その日暮しの連続で生活してゐた事に、直吉は、やりきれなくなつてゐる。一寸したきつかけで、かうした兵隊と、仲良しになつて、極くさゝやかな幸運をもたらせてくれないものかと、空想もしてみる。兵隊は友人に出逢つたのか、大きい声を挙げて、身軽るに木柵から腰を降ろすと、まつすぐな歩き方で、PXの建物の方へ足早やに行つた。
直吉も木柵を離れ、ゆつくりした歩きかたで、数寄屋橋の方へ仕方なく戻つた。
直吉が山の手線で、巣鴨の駅へ降りた時は四囲は[#「時は四囲は」は底本では「時は 四囲は」]とつぷり暮れてゐた。待ち合せる場所まで行つてみたが、里子はまだ出て来てゐない。こゝはまた馬鹿に淋しい町通りである。寒い夜風が吹きつけてゐたが、深く呼吸をしてゐると、春らしくもある。沈丁花の垣根が匂つてゐる。ラジオの騒々しい対話が聴える。電信柱と、産婆の赤い灯とが向きあつてゐる。そこへ立つたびに、直吉は不愉快であつた。湯殿の煙突が火の粉を噴き、台所で肉を焼く匂ひがしたり、子供の甘つたれた声がした。白い石の門柱の前には、高級車が停つてゐる。沈丁花の垣根に添つた溝には、米を洗つた白い水が、溢れて流れてゐる。平和なその家の賑やかさが、直吉には妬まし
前へ
次へ
全21ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング