狭い檻の中で、何処へ行く当てもない群集が、閉じこめられてゐる。息苦しくて、直吉は不安な底に落ち込むやうだつた。いつそ里子とは別れてしまふべきだと、その思ひのなかに、また引きずり込まれて行く。自分の生活を大手術してかかるには、まづ、名前だけの夫婦関係を断ち切るべきであらうかと、里子の行末に就いて、直吉は、責任を持つべきものかどうかを疑問に思つてゐる。離れて住む夫婦の、かうした関係に就いて、誰も何の疑問も持たないのは、さうした自分達夫婦のやうなものが案外少ないのではないかとも考へる。ソ連から引揚げて来て、直吉は、家と云ふものをいまだ持てなかつた。半年にもなるのに、自分の努力は少しもその方へ向いて行かなかつたのだ。最初のほどは焦々してゐたのだが、半年も経つてみると、かへつて、投げやりな気持ちになり、現在では、里子に対しても、昔程の激しさはなくなつてゐた。誰が悪いと云ふ事もなかつたが、直吉は時々、世の中の誰へともなく、怒つてみる時がある。「だつて、仕方がないわ。どうにもならないンぢやありませんか。貴方は長い事外国にいらして、空襲なンかを御ぞんじないから、そんな不服もお持ちなのでせうけれど、私一人ではどうにもならなかつたのよ。――何も好きこのんで、働きに出てゐるわけぢやありません。私だつて、一軒の家に貴方と住みたいンですけれど、住めないのよ。何も判らないから、貴方はそんな無理をおつしやるけれど、これが敗戦だと思つて、私、あきらめて働いてゐますの‥‥」里子はさう云つて、怒つてぶりぶりしてゐる直吉を、なだめにかゝるのだ。何時も、別れる時の里子の言葉は、こんなふうにきまつてゐた。二人とも別々の檻に入れられた、雌雄の動物のやうに、少しも人間らしい自由はなかつた。――露店と、商店のショウ・ウインドウに挟まれた狭い歩道を、直吉は人波に押されながら歩いてゐる。直吉は、不思議な外国の街を歩いてゐるやうな気がした。出征当時の乏しい街ではなかつた。何処から、こんな街がにゆつと現はれたのかが不思議だつた。不安もなく人間は歩いてゐる。露店も商店も沢山の品物を積み上げて、通行の人々の眼を呼びとめてゐる。沢山の人間の抜け殻が、歩いてゐるやうだつた。何が幸でこんなに沢山の人間が歩いてゐるのか、直吉にはさつぱり判らなかつた。ノボオシビルスクにも、こんな賑やかな街はなかつた。すつかり浦島太郎になりきつてゐる直吉にとつては、今宵の銀座の街は幻の街だつた。さつきの、河底の広告マンの必死の生き方が、何故ともなく直吉の心の中をゑぐつて来る。春か、秋かも、季節のない都会の街路に、頬に沁みるやうな冷い風が吹きつける。夕暮の雲一つない水色の空に、平凡な風景を見る気がした。何処へ行くあてもなかつたが、PXの前まで歩いて、さて、どの方向に電車道を渡るべきかと、直吉が立ち停ると、耳のそばで、聞きなれない異国の言葉が聴えた。直吉は振り返へつた。若い進駐軍の兵隊が何人も立つてゐる。どの兵隊も、健康さうで赧い顔をしてゐた。身だしなみや、躾のいゝすつきりした姿で、それぞれの仲間同士と話しあつてゐる。そこだけが直吉には別世界のやうだつた。何の恐怖もなく、そこへ立つてゐられる事が不思議だつた。それに、自分のみすぼらしさが卑下されるのも。その兵隊達を見て、初めて、直吉は自分の立ち場を知るのだ。線路の十字路になつた、分岐点の処で、日本人の巡査がゴオ・ストツプの合図を不器用な手つきでやつてゐる。その合図にあはせて、自動車や電車の流れが、十文字に滑走して流れて行く。直吉は珍しいものでも見るやうに、暫く、その騒々しいゴオ・ストツプの合図に見とれてゐた。子供の無心さにかへつて、その巡査の動作を眺めてゐた。すつかり外国風な合図の仕方になり、若い巡査は白い手袋の手をくるくると振りまはしては、呼び子の笛を吹いた。直吉は腹が空いたが、何処で食事をすると云ふ当てもない。
 黄いろい木柵に凭れて、いかにものんびりした恰好で、直吉は立つてゐたが、雑音や人通りも、総てまたぴたつと戦時中のやうに停止してしまひさうな不安になつて来る。何処かで子供が産まれ、何処かで死者を葬つてゐる毎日の、人間の営みが銀座の四辻には、一向感じられない。みんな永遠に生きてゐられるやうなそぶりで、人波は行きつ戻りつしてゐた。自分のそばに濠洲兵が一人立つてゐた。直吉は珍しさうに、その兵隊をじろじろ眺めてゐた。白い帯、白いたすき、つば広の帽子の片側ぶちを折り曲げたのを、はすに被り、茶色に光つた眼で呆んやりと歩道の人波を眺めてゐた。遠い処から来た兵隊なのだらうが、いつたい地球のどのへんから来たのだらうかと空想してみる。直吉も丁度こんな事があつた。ノボオシビルスクの停車場で、二人連れの少年が、直吉の兵隊姿をじろじろ眺めてさゝやきあつてゐたものだ。直吉はその少年の方
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