かつた。焼け残つた広い家の石塀に添つて、直吉は、何時も相当の時間を、こゝで行つたり来たりして、里子を待つてゐなければならない。煙草を吸つてみたり、時には待ち疲れて、蹲踞んでみたりする。徹底的に打ちのめされたやうな気がして来る。何に打ちのめされたのかは判らなかつたが、直吉は心細さと、未来の不安で、小道を焦々して歩いた。じれて、里子の家の前の板塀の処まで来ると、きまつて、家の中から、犬が吠えた。大きい犬だと聞いてゐたので、不気味な吠え方であつた。外套の襟をたて、門の前を通り過ぎる。耳門が開いて、里子が白い肩掛けをして小走りに、産婆の赤い灯の方へ歩いて行つた。直吉は後を追つて、大股に里子の後をついて行つた。里子は、肩掛けの片方を後へ垂したまゝ、せかせかと前かゞみ歩いてゐる。大通りへ出ると、初めて、里子は足をゆるめて、後から来る直吉を待つた。
「お待ちになつて?」
何時も同じ事を里子は云つた。時間を守れない癖に、同じ事を云ふ里子に対して、直吉は、初めから腹をたててゐるのだ。長い間、里子に接しない恨みもあつたが、それにしても、言葉つきだけは優しい事を言つてゐながら、里子は言葉以外の動作で、ひどく直吉には邪けんにふるまつた。直吉は、それをよく知つてゐたし、また同じ事のむし返へしだと思はないわけにはゆかなかつたが、それでも、何となく、里子に惹かれて、のこのこと出向いて行く、自分の卑しさが、直吉にはたまらないのだ。
「腹が空いたが、此辺に、何か食ふ店でもないのか」
「あら、何時でも、貴方は、私に逢ふ時は、おなかが空いてゐるのね‥‥。おうちで御飯を召し上つていらつしやらないの」
「食べないよ」
「さア、此辺、何処かあるかしら……大塚まで行けば、何かあつたわね、お蕎麦みたいなものでもいゝンでせう?」
「何でもいゝ」
「何を、そんなに、ぷりぷり怒つていらつしやるの?」
「馬鹿にいゝ匂ひがするな。香水をつけてゐるのかい?」
「あら、香水つて、そンなもンぢやないけど、今日久しぶりで髪を洗つて、香油をつけたから匂ふンでせう?」
里子はさう云つて、後へさがつた肩掛けを、引き上げる次手に、頭髪へ手をやつた。珍しく上の方へ髷を結つてゐるので、襟足がすつきりして、夜目にも首筋が白く見えた。時々、風のかげんで、里子のまはりに、甘い匂ひがただよふ。直吉はもつれつきたいやうな気持ちだつたが、照れてゐるので、そばへくつゝいて歩く事も出来ず、わざと、怒つた様子で里子と歩調をあはせてゐる。里子は暫く黙つて歩いてゐたが、肩掛けで唇をかくすやうにして、
「仕事みつかりましたの」
と訊いた。直吉は自然に里子のそばへ寄つて行き、ぽつんと、「まだ、駄目だ」と云つた。一度、自分の就職について色々と話したかつたし、また、何時もの[#「何時もの」は底本では「何時も」]やうに、味気ない別れは厭だつたので、
「今夜、何処か、宿屋へ泊れないのか」
と、尋づねてみた。里子は暫く返事もしなかつたが、明るい電気屋の前まで来ると、小さい声で「泊つてもいゝわ」と云つた。直吉は吃驚した様子で「家へ断わらなくてもいゝのか」と聞いた。宿屋へ行つて、うまく電話をかければいゝでせうと、里子はぷつゝりと黙つたまゝ歩いてゐる。見覚えのない紫お召の羽織を着てゐた。時々直吉の手に触れる、お召の感触が冷たかつた。直吉は宿屋へ泊ると云つた里子の、今夜の心境が不思議だつたが、別にその気持ちの変化を聞きたゞす気にもなれなくて、賑やかな通りへ出ると、自分で、宿屋を物色して歩いた。何時来ても知らない街を歩いてゐる気がして、直吉は煙草屋の店に立ち寄つて宿屋を聞いてみたりした。煙草屋の硝子瓶に、光やピースがぎつしりと這入つてゐるのを見て、直吉は、戦争中の、煙草の乏しかつた時代を思ひ出してゐる。光を二つ買つた。煙草屋ではマッチを一つ添へてくれた。世の中がすつかり変化してゐる。直吉はかへつて歴史のうつりかはりを感じた。街の店先には、何処にも防空壕が掘られて、こんもりした防空壕の築地の上に、菜つぱや、コスモスの植つてゐた時代がかつてあつた。街路樹は薪に切られ、家々の軒先きには、トビ口や、火叩きや、砂袋がかならず置いてあつたものだ。男も女もけじめのつかない素朴な姿になり、乏しさによく耐へて生きてゐた。大豆や雑穀の配給を受けて、辛うじて露命をつないでゐた戦争中のしこりが、直吉には、煙草屋の店先きでふつと息苦しく回想された。灯火や、硝子窓に黒い布がかぶさつてゐたのも、つい三四年前の事だ。さうした暮しの乏しい祖国を離れて、里子のつくつてくれた、千人針をふところにして、直吉が出征して行つたのは昭和十九年の秋であつた。
直吉が此のあたりに旅館はないかと聞きかけると、先きに歩いてゐた里子が後返へりして来た。中学生のやうな店番が、二軒先きの路地のなか
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