に、昔、下宿を兼ねて旅館をしてゐた家があると教へてくれた。焼け残りの一郭とみえて、かなり古い家並みが続いてゐる。路地口に染物の看板の出てゐる家があつたので、直吉は店先きで自転車の手入れをしてゐた男に、煙草屋で教はつた旅館の所在を聞いた。男は気軽るに、路地の前まで行つて、この横丁を出はづれた右側に、青いペンキ塗りの家があると教へてくれた。路地のなかはひつそりとしてゐた。凸凹の切石を敷き詰めた道を暫く行くと、広い道へ出はづれる右側に、二階建ての四角なペンキ塗りの家があつた。新しく看板を塗り変へたとみえて、葵ホテルと書いた白い看板がさがつてゐた。二枚の硝子戸にも、金文字で葵ホテルの文字が出てゐる。直吉は硝子戸を開けた。
 赤いジヤケツを着て、花模様の短いスカートをはいた小柄な太つた娘が出て来たが、直吉が部屋がありますかと尋づねると、直吉の後に立つてゐる里子を娘は透かして見ながら、「はい、一寸お待ち下さい」と云つて、ぺたぺたと素足で廊下の奥へ引つ込んで行つた。入口の部屋には、障子が閉つて人の話し声がしてゐる。広い板敷の廊下には、玄関へ背を向けた梯子段の下には、荷箱や、卓子や椅子が積み重つてゐた。暫くしてから、黒い上張りを着た中年の女が出て来た。
「お二人さんですか?」
「さうです」
「御一泊ですね?」
「さうです‥‥」
 女は二足の古いスリッパを上り框へ揃へてくれた。直吉と里子は、その女の後から二階の梯子を上つて行つたが、表側の、廊下へ向つた部屋へ通された。かね折りの二方が障子で、片方は襖、奥は、三尺の床の間に[#「床の間に」は底本では「床の間の」]一間の押入れがついてゐる。障子も襖も新しいせゐか、案外こざつぱりした部屋だつた。紫檀まがひの卓子の前へ坐ると、隣室から、女は銘仙の座蒲団を二枚持つて来た。直吉は坐つたなりで外套をぬぎながら、夕飯を一人前とビールを註文した。簡単なものなら出来ると云ふので、直吉は吻として、卓子に頬杖ついた。里子は肩掛けをしたまゝ直吉の前へ坐つたが、直吉の方へ視線をむける事はしなかつた。遠くに省線の音が聞こえる位で静かである。里子はシヨールの房をいぢりながら、時々溜息をついてゐた。直吉はよその女と出会つてゐるやうな気がした。甘い匂ひがした。直吉は、里子のうつむいた額のあたりを暫くみつめてゐたが、今日見た、河底の広告マンの姿を思ひ出して、あれだけの勇気を出す事が出来たら、何とか里子を引きさらつてやつてゆけない事もないだらうと思つた。
「この家、電話ないンでせうね?」
 里子が顔を挙げて、電話があるかどうかを云ひ出した。額の狭い、眉の濃い里子の顔が若い。小さい鼻や、唇のきりつと締つた小さい顔が、不安さうに直吉の表情を、額ぎはでうかゞつてゐる。少し藪睨みの眼が、うるんで見えた。
「今日、前田の事務所へ寄つたら、税務署から差し押へが来たと云つてゐた。」[#「ゐた。」」は底本では「ゐた。」]
「あら、ぢやア、前田さん悄気ていらつしたでせう? 税金、大変なんでせう?」
「事務所を閉めてしまつた方が、かへつていゝやうな事を云つたがね。前田も細君が、近々、子供が産れるので、その方の金の工面が大変だと云つてゐた、世間も金詰りだね‥‥」
「銀座のあの場所は、人に渡るンですか?」
「いや、ありやア前田の事務所ぢやないンだから、あのまま出ちまへばいゝンだ。今度は自動車[#「自動車」は底本では「自動者」]のブロオカーでもしようかと云つてゐた。どうせ、夏になれば、アロハ襯衣がまた全盛だらうから、ネクタイの商売は駄目ださうだ」
「でも、前田さんは、世渡りが上手だから、何をしたつてやつてゆけますわ」
 軈て、丼飯、二三品のおかずの皿がついた膳とビールを、さつきの娘が運んで来た。火鉢はなかつたが案外寒くなかつた。直吉はビールを抜いて、里子のコツプにもついでやつた。腹が空いてゐたのでビールは腹に浸みた。――都会の片隅に、こんな旅館があり、飯やビールを運んでくれるやうになつた時世が、直吉には夢のやうだつた。里子は、肩掛けを取つて、ビールのコツプに手を出した。白い襟もとが直吉の慾情をそゝる。娘が火鉢を持つて来たので、里子が電話があるかどうかを聞いた。
「以前はあつたンですけど、戦争中に売つちやつたらしいンです。二丁ほど行つたら、市場の前に自動電話がありますけど‥‥」
 里子はもう少ししてから、電話をかけに行くと云つて、火鉢に手をかざし、ビールのコツプを唇もとへ持つて行つた。直吉は追ひかけるやうに、またビールを里子のコツプにつぎ、
「別れたいと云ふのは、手紙だけぢや判らないが、またいい相手でも出来たのかね。籍の問題なンか、どうでもいゝンだよ。書類さへつくつて来たら、判は何時でも押してやる‥‥」
 里子は固くなつて、ビールの泡に眼をやつてゐたが、別に悪び
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