な。何でもねえぢやアねえか、こんな世の中、いつたい誰のものなンだい?」
「僕は、たゞ自分で働いて、自分で食つていければいゝンですよ‥‥」
「そりやアさうさ。それが一番いゝ事なンだ。俺だつて、おだやかに、のんびりと、もう何も考へないで静かに暮したい‥‥。二度と戦争にやア行きたくねえし、お前だつて、馬鹿々々しい目を見たンだもンな‥‥」
 隆吉は誰かに貰つたと見えて、水色の派手なジヤケツを着込み、油で光つたリーゼントの頭を板壁に凭れさせて、立つて膝を抱きかゝへて[#「立つて膝を抱きかゝへて」はママ]煙草を吸つてゐる。色の悪い顔色で、眼尻が上つてゐるせゐか、何となくボーイ面して澄してゐる。直吉は片肘ついて寝転び、電気の下で新聞を拡げてゐたが、油気のない頭髪が広い額にかゝり、くぼんだ眼はぢいつと店の方へ向いたまゝだつた。いまだに復員服を着て、首によれよれのひろひものの白いマフラを巻いてゐる。頬骨がとがつて、色の黒い唇はむくれて、昔のおもかげはあとかたもないほどだつた。ひどく老け込んで、四十を過ぎた風貌に見える。
 鈍重で粘り強く、幾度も兵隊生活で制裁を加へられた人間特有の、がつしりした体つきで、直吉は悠然と喋つた。幾度となく忿怒を通り越して生きてきた直吉は、木の根株のやうな腰の坐り方でもある。
「全く、人間つてものは正気ぢやアない。正気ぢやないよ。豪さうな事を云つてるが、同じ事のむし返へしだ。癇癪もちで、おべつか屋で、いざ事が起きてみろ、心の中でひいひい悲鳴をあげる癖に、歩く時は我関せずえんだ。合点のいつてる顔してる奴にかぎつてろくなのはゐないね。女は女で新しもの好きで、二度と昔の男には見向きもしねえ‥‥。お前、女は出来たのかい?」
 直吉がしびれた肘をはづして、にやにや笑ひながら隆吉を見上げた。
「近いうちに結婚しますよ‥‥」
「ほゝう。そりやアいゝなア。べつぴんかね?」
「さア、どうですかね。僕には満足ですがね‥‥」
「そりアいゝな、大事にしなくちやいけねえな。それで、おふくろが邪魔になるンぢやないのか?」
「いや、僕は近々にこゝを出て行きますよ」
 直吉はあゝとのびをして、部屋の隅の継母の寝顔に眼をやつた。能面のやうにてらてらして、汚れた手を胸の上に組んですやすや眠つてゐる。隆吉に捨てられた父と継母はどうなつてゆくのかと直吉は、その寝姿に哀れな気がした。自分もこゝを逃げ出して行きたかつたのだ。二人が残されるとなると、差づめ困るのは父かも判らない。継母は物乞ひしても何とかして生きてゆけるだらうと思へた。犬猫の小便臭い匂ひが小舎のなかにこもつてゐる。継母は時々体の掻ゆさにぶるぶると身震ひしてゐる。昔は継母の若さが気に食はなかつたが、いまでは、汚れて泥々になつてゐる継母の寝姿が、神々しくも感じられた。継母に向つて、あの時感じた一瞬の悪魔的な気持ちが、あゝ何でもなくてよかつたと、直吉は苦笑してゐる。
「仲々死ぬやうな顔ぢやないね」
 冗談めかしく云つて、直吉は、生きるだけ生きて、この落下してゆく社会とともに、継母は継母の未来を持つた方がいゝと投げやりな事も考へる。

 直吉は、二本目のビールをコツプについで、様々な事を考へた。里子は、電話を掛けに行きたいらしく、そはそはしてゐる。直吉は今夜こそ、里子に向つて恨みを晴らしたい気がしてゐた。賠償を取りたててさつぱりと、籍を戻してしまふ気だつた。今日見た河底の広告マンの姿が瞼に焼きついて離れなかつた。橋の上から、弥次馬が大勢のぞきこんでゐたが、結局は自分達も、生きながらの河流れの広告マンと少しも変つてゐない気がした。このやうな見本があると云ふ姿を、世界に示してゐるやうな、一つの民族の広告マン振りが聯想されて、それに就いての自覚もない、高見の見物衆の心理が、直吉には、をかしくてならないのだ。有害無益な群衆を尻目に、泥河に寝転んでゐるあの広告マンの姿は、直吉には深く印象づけられた。あすこまで落ちこんで初めて平和な境地が発見出来るのかも知れない。流れる雲に愛撫されるやうに、水に写つた雲の上に、悠々と寝転んで、あの広告マンは灯のついた食卓に待つてゐる幾人もの子供の優しい声を聞いてゐるのかも知れない。「待つておいで、お父さんは今日の日当を貰つて、土産を買つてやるよ‥‥」そのやうな事を考へてゐたのかも知れないのだ。細君は時計を見てゐるに違ひない。完壁[#「完壁」はママ]なものだ。野次馬は、この完壁[#「完壁」はママ]なものの風懐に触れるよりも、まづ自分はあの泥河にまではまり込まなかつた幸福感を味つてゐるに違ひない。俺はまだ、あの男よりはいゝ生活だと‥‥。
 ビールの酔ひのせゐか、直吉は少しつつ昂奮して来た。甘い香水の匂ひが慾情を責めたてて来た。矢庭に直吉は手をのばして、里子の手を掴んだ。里子は吃驚したが、迷
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