たぐつては、売り込みに行く。自分だけの生活費は十分さや[#「さや」に傍点]取り出来る仕事だつた。かうした束縛のない職業は直吉にとつては都合がよかつた。前田は小男で、はしつこい性質だつたが、気の小さい割に、ねばりの強い気つぷうが、直吉には気に入つた。住職も、この秘密な商売の仲間にはひつてゐた。時々、住職は砂糖やコオヒイを直吉から持つてゆく。直吉は里子を連れ出して、前田にも紹介して派手なところも見せた。自分の逞しい商才を前田の口から語らせて、里子の関心を呼びもどす策を講じてみたかつたのである。だが、里子は、男を見抜く術を心得てゐた。一向に家を一つにする気乗りを示してくれるやうなところはない。――直吉は二三度、街の女も買つてみたが、その度に里子へ向つて、熱情的になるだけである。街の女と一緒にゐても、里子が忘れられなかつたし、里子を恋ひこがれる悩みは深まるばかりだつた。――直吉は家へは一銭も入れなかつた。三度の食事だけは自分勝手に外出して食べてゐたが、父や隆吉に対しては、何一つほどこしてやる気はしなかつた。時々、父や隆吉の留守を見計つては、直吉は、継母にだけ売り物のチヨコレートを与える。継母はよろこんでむさぼり食つた。四十を出たばかりの継母は、まだどこかに女の肉体をそなへてゐたし、童女のやうな素直さに戻つてゐる人間の素面が、直吉には何とも云へない不憫さだつた。父にも隆吉にも、もてあまされてゐるとなると、直吉は継母を子供の如く蔭でいろいろと面倒を見てやつた。父と隆吉へ対しての衝突は、何時も継母の事から始まつた。直吉は、継母を母とも思つては、ゐなかつたし、女とも考へてはゐなかつた。性格のなくなつたこの狂人女に対して、直吉は杳かな流れ雲を見てゐるやうな、郷愁を感じてゐた。その気持ちを分明に解釈は出来なかつたが、究め尽せない自然人を、そこに眺めたやうな気がして、父や[#「父や」は底本では「父の」]隆吉には争つてでも継母を守つてやりたかつた。継母へ向ふ気持ちが、少しづつ気紛れではなくなつて来てもゐる。里子の冷たさを見せつけられる度に、直吉は、その反射作用で継母へ優しくしてやつた。犬か猫を可愛がつてやつてゐるやうな愛しかただつたが、継母は、直吉が商売から戻つて来ると、甘えた声を出して食物をせがんだ。父や隆吉がゐても、継母ははばかる事なく、直吉に、食物を要求した。隆吉はその継母の甘えた姿を見ると、眉をしかめて継母を叱りつけ、直吉に向きなほつて皮肉を云ふのだ。
「あンた、お母さんが好きなのなら、お母さんを連れて、何処かへ行つてくれるといゝンだ」
「ほう、俺がおふくろを連れて出るのかい?家さへみつかれば連れて行つてやつてもいゝさ。――俺はね、戦争へ長く行きすぎたし、年もとつたし、苦労もしたンだ。どう焦つたところで、奇妙な世の中なんだ。奇妙でないのは、この狂人だけぢやねえか‥‥。それだけの話だ。俺が狂人とどんなつながりがあるンだい。何もしらねえよ。知つてゐるのは親爺とお前だけだ‥‥。どうして、こんな狂人になつたンだい? 俺はこのおふくろが子供みてえに可哀想だと思つてるきりなンだぜ‥‥。面倒がみきれないとあれば、病院へでも入れてやりやアいゝンだ」
直吉は、三人の男達が、身を粉にして働いて千万長者になつたところで、この狂つた継母はびくともしないのだと思ふと痛快な気がしてゐる。世の中がどのやうに引つくり返へつたところで、継母は自然のまゝなのだと思つた。まともな人間に抵抗出来なくなつてゐる継母の方が、直吉にははるかに水々しかつたし、まともな人間に見えてくる。
「僕は、早くこの狂人が死んでくれればいゝと思つてるンだ。家の中が暗くてたまらない。くたばつてしまへばいゝンだよ。食気ばかり強くて、留守の間に、食ひ物はみんなたひらげてしまつてやがる‥‥。怒るとふてね[#「ふてね」に傍点]して知らん顔してる。僕はこんな狂人を養ふ為に働いているンぢやないツ」
「なるほどね、そりやアさうだ。いつそ、汽車へでも乗せて、何処か遠くへ捨てて来たらどうなンだい! それも出来ないとあれば、俺達三人で、この狂人を殺してしまふのもいゝね。何時でも俺は手伝つてやるよ‥‥」
隆吉は黙つてしまふ。父は厭な顔をして、店の方へ出て行く。直吉は意地の悪い微笑を浮べて、小さい声で云つた。
「なあに、いまに、俺だつて、どうなるか知れたものぢやない。その時になつたら、俺が、一人で、おふくろの首ぐらゐはしめてやる。案じる事はないさ‥‥。革命でもあれば、俺は真先きに飛び出して行く勇気があるンだぜ‥‥。お前、そんな事は何でもありやしない。――お前だつて、心のなかぢやア、何だつて考へるだらう‥‥。誰にも嗾かされないでも考へてるンだ‥‥やるかやれないかだ。俺は内地へ戻つてから、少しづつ無頼漢になる修業もしてるンだから
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