びしく抵抗した。直吉は何が駄目なのか一寸判らなかつたが、籍の這入つてゐる女が、どうして、こんなひどい事を云ふのかと、暫く呆気にとられてゐたが、ぢいつと考へてみると、あゝさうなのかと、腑に落ちないでもない。それにしてもお互ひの心を話しあひながら歩いてゐる気にはどうしてもなれないのだ。まづ、お互ひはぢかに触れあふ必要に迫られてゐると直吉は思つてゐる。実行しようとした。だが、里子は抵抗して、直吉から飛び離れ、躑踞み込んで、喘ぐやうに云つた。
「もう少し待つて下さい。どうしても家をみつけてから、ね。貴方は長い事日本にはいらつしやらなかつたから何もお判りにならないけど、日本は、もうすつかり変つてしまつたのよ。いまこそ、こんなに賑やかになつてますけど、終戦の時は、地獄みたいに焼野原だつたンですよ。留守してるものが大変だつたンですよ‥‥。大変な戦争だつたンですのよ」
 たしかに焼野原だつたのには違ひない。以前の家は跡かたもなく、その跡にバラツクが建つてゐるのを知つてゐるし、現にこの寺の巨きい建物も、石垣を残してあとかたもない。だが、それが、自分と里子の間に何の関係があるのだらう。なるほどこの寺内の真中にも小舎が建つて、住職は毎日畑をつくつてゐる様子だ。かつてはでつぶりと肥えて、色の白い住職が、みるかげもなく痩せ衰へて、畑仕事をしてゐるのは、何と云つても大した変化には違ひない。人の生涯は判らぬながら、こゝでは宗教も灰になつてしまつたのだと、直吉はこの寺の前を通る度に、住職の畑仕事をしてゐる姿を暫く眺めてゐたものだ。
「家をみつけるよりも、まづ、お仕事はありましたの?」
 里子は、直吉の焦々してゐるところへ、油をそゝぐやうな事を云つた。職業に就かなければ、二人は寄り添ふわけにはゆかないとなれば、直吉は、家を求める資格はないのかと知らされる。一文もない。職業もまだみつけてはゐない。――里子は思ひ切つたやうに云つた。舞田の世話になつてゐる事から、千葉で空襲にあつた事、二十年の三月九日、下町の大空襲で浅草も焼けてしまつた事。終戦の前に、舞田の世話で、熊谷に疎開してゐたが、こゝでも焼け出されて、終戦と同時に、舞田と別れて、浅草の以前働いてゐた家のものに出逢ひ、暫くバラツク建ての待合で芸者に出てゐたが 親切なひとがあつて、巣鴨に部屋をみつけて貰つて、いまは通ひの芸者になつて浅草に出てゐると打ちあけて話してくれた。芸者になつたとは云つても 体を売るやうな芸者ではありませんよと云ふのである。舞田某の世話になつた以上、何人の肌に触れようと不貞を働いた事には変りはなかつたが、里子は別に、悪い事をしたとも思はないらしく、かへつて、直吉に触れたくない怯えたそぶりを見せた。
 里子は別に許して下さいとは云はなかつたが、直吉はすべてを許して、いま、すぐ、この暗闇のなかで、里子を強く抱き締めたかつた。精神なぞはどうでもよかつた。皮膚が焼けつくやうな飢渇から、お互ひの文句はあとまはしにしたかつた。純粋無垢なぞは、直吉の方でも今はどうでもよくなつてゐる。継母の膝小僧の隙間から覗いた、あの、穴洞が、直吉の心をそゝつた。快楽の本能は、花火のやうに頭の芯から足の踝にまでしびれわたつてくる。直吉の心を見抜いた里子は、きわめて巧みに直吉の慾望をそらしにかゝつてゐる。
「もう少し待つて‥‥。ね、きつと、私、いゝ場所をみつけます。一週間したら、きつと、また昔通りになれると思ふわ‥‥」
 一緒になれると云つて約束してくれた、一週間が、一ヶ月になり、一ヶ月が二ヶ月とのびのびになり、半年の月日が無為に過ぎた。逢ふたびに、里子は大胆になつて、直吉をあしらつた。半年の間に、たつた一度、無理な出逢ひをして里子を怒らせただけで、直吉は里子の心のなかに、直吉に対してはとつくの昔に冷めきつてゐるのを知らされたのだつた。職業も仲々みつけられなかつたが、それよりも、里子との同棲が、せつかちになつてゐる直吉には、何よりもの願ひだつた。里子は何時までたつても、別れませうとは云はなかつたけれども、身についた仮装で、その場しのぎに、獣と化した直吉をあしらつてゐる。直吉は素直にあしらはれた。素直にして里子に安心をさせてはゐたが、何時か恨みは達したいと胸に深くふくんでゐる。孤独だつた。その孤独さを踏み破るやうに直吉は、父や隆吉のおもはくなぞも考へようとはしない。我まゝをふるまつて、今ではゐなほつてしまつた。――直吉は偶然に、寺の住職と知りあひになり、この住職の世話で、銀座に事務所を持つてゐる前田純次の仕事を手伝ふ事になつた。表向きはネクタイや絹のハンカチの製造販売であつたが、ひそかに闇物資の売買もやつてゐた。ボストンバツクに、外国煙草や化粧品や、チヨコレートや、サツカリン、電気剃刀、砂糖、そんなものを詰め込んで、知りあひを
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