たが、やつと一ヶ月振りに、妻の手紙とも思へぬ白々しさで、二三日うちに参りますと云ふ音信が来た。――
「お母さん、少しは体はいゝかい?」
「お隣りさんに少々手間をかけさせたので、あやまりに行かなくちやならないね」
「何がお隣りさんだ? お隣りさんなンかありやアしないよ」
「地下室に、水がいつぱい溜つたから、ポンプで吸ひ上げるンだよ‥‥」
「地下室?」
「早く逃げ込まない事にはあぶなくてねえ、壁には[#「壁には」はママ]屋根にも弾があたるンで、四囲が火の海だつたンだよ。歩くのに道が熱くてたまらないしね。お父さんは、私を捨てたンだから。私は何時までも逗留してゐるつもりですよ。私に何も食べさせないし、第一、油断がならないンでね。慇懃な人間には、気を許しちやいけないよ‥‥」
「親爺はそんな人間だ。死んだお母さんにも冷たいひとだつたなア‥‥」
「そりやアさうですよ。女好きなンですからね。鬚を剃つて出なほして来いつて云つて下さい。年中、私は嫌はれてるンで、遠いところから呼んで貰はなくちや‥‥一年前からふらふらして、雑巾がけをするのに辛くてね」
 継母はさう云つて、部屋の隅に坐つて、気持ちよささうに話した。ぼろぼろにほつれた毛糸の上張りの前がはだけて、玉葱のやうに光つた膝小僧が出てゐた。直吉は寝転んでゐたが、頭をその方へ寄せて、膝小僧の間から暗い洞窟を覗いた。長い間摸索してゐた一つの命題がそこにあるやうに、ぢいつと暗い一点を覗きこんでゐた。息苦しかつた。誰も出掛けたあとの部屋は、環境が広々として居心地のいゝ場所だが、ふつと、継母の体から淫蕩な倦きる事のない連想が湧いた。一種の背徳が、戦争の時のやうな響音で、直吉の耳底にすさまじく鳴り響いた。畳に寝転び、直吉は無心な狂女の膝小僧を静かにさすりながら、自分でも無気味であらうと思へる眼で、暗い洞窟をぢいつと覗き込んでゐた。継母ははにかみ笑ひをしながら、直吉のなすままに任せて、
「逃げるだけは逃げておくれよ。私はあの火の粉を見る事だけはまつぴらなンだから、とても大変な死人が、ポンプも何も間にあはないンだからね‥‥。何処へも行けやしないし馬穴持つて逃げたら、お父さんつてばね、あの時になつて、私を橋の上から突きおとしたンですからね」
 継母はばらばらと涙をこぼして、忍び泣きをしてゐる。醜い泣面だつたが、誠実なしみじみした美しさがたゞよつてゐた。人間の素面にめぐりあつたやうに、直吉は、収容所での長い悪習を、ふつと後から平手をぴしりつと食つたやうな気がしてやめた。
「あんたも、私も不幸な奴だよ」
 継母の膝小僧を裾でかくしてやりながら、直吉は心から、自分を投げ出してみじめな奴だと自分に吐きかける。里子は、いまでは他人になつてしまつてゐる。どうせ、よりの戻る間柄ではないだらうけれど、里子の顔が馬鹿にみたくなつた。里子から来た手紙を拡げて、何度も文字を一つ一つ丁寧に読み返へした。里子を考へる事は一種の快楽に近い気持ちであつた。直吉は、手紙の上に顔を伏せて泣いた。泣いてゐると、淋しい幸福感でいつぱいになつてくる。ノボオシビルスクにゐた頃も、時々、かうした虚しい思ひに耽つた。[#「耽つた。」は底本では「耽つた、」]同じ収容所仲間で、華族の息子がゐたが、「どうも、人間つて奴は、この幸福を考へる事だけで、生きる望みをつないでゐるやうなもンだ」と云つてゐた。直吉は継母の泣いてゐる顔をぢつと眺めてゐたが、さつきの卑しい思ひを誘はれたいやらしさが、継母の顔を見てゐるうちに腹立たしくなつて来た。
 二三日してから、里子は本当に尋づねて来た。すつかりおもかげが変り、昔ながらの藪睨みには変りなかつたけれども、化粧しない顔は蒼ざめて生気がなかつた。何年逢はなかつたのだらう‥‥。それでも、初めて里子を見た時、直吉は、里子はこんなに美人だつたのかと、正視出来ない程のまばゆいものを感じた。隆吉も父もゐた。所在ないので、ラジオの漫才を聞いてゐた。囚人が檻の外の女を見てゐるやうに、皆のゐる前では、どうにもならない焦々しさだつた。秋の冷々した風が、トタンの屋根に軋んでゐる。
 里子の手土産の羊かんで茶を飲みながら、父は眼やにのたまつた光のない眼で、里子になるべく早く直吉と一緒になつてくれるように云つた。隆吉に気を兼ねての云ひぐさだつたのだらうが、直吉は、いゝ気持ちではなかつた。里子は金茶色のお召の矢絣の袷に、紅色の帯を締めてゐたが、白い襟もとをきつく合はせてゐる癖は今も昔と変らない。隆吉は羊かんを頬ばりながら、すぐ夜遊びに出て行つたが、父はぢいつとして意地悪く動かなかつたので、直吉は里子を送りかたがた外へ出て行つた。暗い石垣添ひの寺の処へ来ると、直吉は里子を抱き締めたが、直吉を素気なく払ひのけるやうにして、
「駄目よツ、もう駄目なのツ」
 と、き
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