されない空虚なものを感じた。人気のない茫漠とした処へ行つてみたくなるのだ。南方への進出も段々勢ひをまして、日に日に戦果が大きく発表された。
――三月あまりたつて、何時か、里子と何気なく約束しておいたとほりに、里子を連れ出して、千駄ヶ谷の友人の二階に里子をかくまつてしまつた。売れツ妓だつたので、別に大した借金もあるわけではなかつたが、それでも、当分は、里子は外出もしなかつた。直吉は寮を出て、千駄ヶ谷の里子の処へ同居するやうになり、里子の配給なしの生活を見てやるのに生甲斐のある苦労もした。あわたゞしい世の中だつたので、浅草からの追手もそのまゝになり半年も[#「なり半年も」は底本では「なり 半年も」]するうちには、里子は平気で外へ出歩くやうになつてゐた。
直吉が再度の出征をするまで、貧しいながらも直吉の生涯にとつて、平和な月日が流れた。直吉は会社の物品を時々くすねて来ては、配給のない里子の生活を見てやつてゐた。会社の物品をくすねて来るのも、段々大胆になつて行つた。時々はきはどい危険な手段も講じるやうになり、直吉自身もさうした悪事に就いては、毎日冷々して暮さなければならなかつたが、さうした追ひつめられた生活は反逆的に生甲斐もあり面白かつた。間もなく直吉は再度の召集令状が来て、千駄ヶ谷の二階借りから満州へ出征して行つた。
考へてみると、初めから根底のない生活でもあつたが、直吉は久しぶりに復員して来て、以前の生活よりは単純な澄みとほつた気持ちで、日本の空気を吸つた。何も彼も一変してゐる。自分自身の支へを自分で強く措置する術を直吉は覚えた。敗戦後の日本には、自由の言葉が広告紙のやうに、撒き散らされてゐたが、考へてみる、その自由は、一種の監禁のなかの自由でもあらうか。たゞ、何となく、社会の流れは、昔の或る時代と少しも変りのない不安な状態に似たものが耳底にがうがうと風音のやうに吹き流れて来た。聊かも人間に与へられた神の試練は昔も今も少しも変らない。‥‥家へ戻つてみると、父は老いてゐたし、継母は脳を病んで昔のおもかげもない汚い女に変貌してゐた。少年飛行兵だつた弟の隆吉は、進駐軍の宿舎にボーイになつて勤めてゐる。おまけに里子は、とつくに千駄ヶ谷をたたんでゐた。直吉が戻つて来て、暫くは里子の消息も判らなかつたが、千葉へ問ひあはせてみて、里子が何となくあいまいな職業に就いてゐる事が判つた。直吉は失望はしなかつたが、里子の不実を許せるかどうかは、逢つてみなければ判らないと思つた。継母は戻つて来た直吉に対して、何の記憶もないやうな白々しさで、はにかんで笑つた。焼け跡に建てた家は、寄せあつめの古材で、建築した小舎同然の家で、風が吹くと、銹びたトタン屋根は凄い音をたてて鳴つた。部屋の隅の一画に、継母は綿のはみ出た蒲団にくるまつて、終日黙つて節穴を睨めてゐた。体を起して、その節穴に指をつゝこんでぶつくさ云つてゐる時もある。寒いも暑いもないのだ。心にも皮膚にも人間の感覚はなくなつてゐた。ロボツトのやうな人間になり、たゞ、下の始末の時だけは、定められた処へ、行儀のいゝ猫のやうなしぐさで這つて行つた。食事は父がつくつてゐた。代書の権利はとつくに人に譲り、父は猫の額ほどの店に、信州から箒を取り寄せて売つてゐた。箒の外にも、素焼の魔法コンロや、束子のやうなものを少しばかり並べてゐた。生活費はほとんど隆吉の収入でまかなはれてゐる様子だつた。直吉は流刑から戻つて来た爽かさで、この狭い家にゆつくり手足をのばしたが、その爽かさは長い忍耐の崩壊したあとのすがすがしさでもあつた。漂流は終つたとは云へなかつたが、一応は、この現実から立ちあがつて行かなければならない。――隆吉が、時々白いパンを貰つて来る事がある。その白いパンを眺めて、直吉は肌の柔かいパンに鼻をつけて、突然うゝつと瞼に熱いものが突きあげた。パンは柔くて美味かつたが、食べながら、その白いパンを頑固に拒否してゐる、意地の悪い気持ちもあつた。――時には、夢で、ノボオシビルクスに引き戻されて怯える夜もあつたが、夢が覚めると、白いパンに向ふ時の厭な気持ちになるのは、心に重たいしこりがあるせゐであらうか。
直吉は、少しづつ自分を持てあまし気味になつてゐる家族の冷たさに気づいてきた。父も隆吉もいやによそよそしく直吉に向ふやうになつてゐたが、あんなに厭でたまらなかつた継母のたけよは、意識を失つてゐるせゐか、直吉に対しては淡々としてゐる。――直吉は戻つて一ヶ月ほどして、里子から千葉の里子の消息を聞くと[#「里子から千葉の里子の消息を聞くと」はママ]、返事を貰つた。直吉からは、簡単に復員して来た通知を、同時に出しておいたのだ。返事は仲々来なかつた。尋づねて行つては工合の悪いところの様子だつたので、直吉は我慢をして尋づねて行く事はしなかつ
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