惑さうに、掴まれた手をふりほどきながら、「厭」と強く云つた。直吉は里子の声がきびしかつたので、思はず掴んだ手を離した。憤然となりながら、脆い気持ちになり、その手でコツプを掴んでぐいぐい飲み干して、唇の泡を手の甲でこすりながら、「何が厭なンだ」とぎらぎらした眼が里子を睨んだ。里子は後しざりしたいやうなそぶりで、また肩掛けを羽織り、
「私、それよか、一寸、電話かけて来るわ」
と云つた。電話を掛けに行くと云ふのは口実で、急に気が変つて、泊りたくなくなつてゐるに違ひないのだ。直吉は返事もしなかつた。泊つて貰はなくてもよかつたし、自分も亦泊る気にはなつてはゐない。里子は、生まれついた性根で、面白をかしく暮したいのであらうし、こんな貧弱な男なぞにはかまつてはゐられないのかも知れない。亡くなつた冨子が、たいこ焼を食べろと云つて、素直に食べなかつた少女時代の里子の頑固さが、直吉には鮮かに記憶にあつた。――里子は里子で、また、違つた気持ちで、静かに直吉の焦々しさを観察してゐたのだ。長い間、戦争に行つて、自分だけが苦労をして戻つたやうな太々しさでゐる直吉に[#「直吉に」は底本では「直吉」]対して大きな不満があつた。貧しい家族に一銭の仕送りも考へてくれないやうな男には何の思ひもなかつた、いまでは、遠い昔の、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと祈つて身を任せた、あの逞ましい老人に何とも云へないなつかしささへ感じてゐる。長い間、子沢山の貧しい一家にそだてられて来た里子にとつては、家の為に犠牲になつてゐると云ふ思ひは一度も持つてみた事がない。たゞ、家へ金を送りたいのだ。あまり多くの男を知つたため、里子は男の世話になる事は、自分の体を代償にする事だと考へてゐた。荷馬車曳きの父は仕事も出来ない程老いてゐたし、弟妹達はみなそれぞれ巣立つてはゐたが、里子の送つて来る仕送りを当てにして、親達に対しては何一つ報いてやる気もないものばかりにそだつてしまつた。弟なぞは、時々上京して、里子に小遣さへ貰ひに来る。里子は金放れのいいところを見せるのが気持ちがよかつた。小言を云ひながら金をやるのだ。家へ送るのも、小言やぐちを並べて金を送つた。その金には、何の執着もなかつた。
直吉は厠へ立つて行つた。里子が逃げるかも知れないと思つたが、それもいゝだらうと、階下に便所を探して戻つて来ると、里子は火鉢に手をかざしたまゝ困つたやうに坐つてゐる。継母を殺す前に、この女から締め殺してやりたい太々しさになつた。分つてゐる。何も云はなくてもお前さんの心持ちは分つてゐると、直吉はまたどつかと胡坐を組んで三本目のビールに手をつけてゐた。いくら籍に這入つてゐてもこの女を自由にする権利はもうないにきまつてゐる。ひゆうと唸りをこめた風が庇に吹いてゐた。誰にも一生を捧げたわけではない。里子には里子の自由さがあるにきまつてゐる。何の世話もしなかつた代りに、里子も、あの時の娘らしさから、世の荒波に揉まれた一人前の女に成長してゐた。二人の別れてゐた距離があまりに長すぎてゐたし、二人は籍の上で結婚はしてゐても、離れて別々の苦労をして今日まで暮してゐたのだ。
「貴方、いゝ奥さん貰ふといゝのよ」
里子がぽつりと云つた。直吉は生いかの焼いたのをぐらぐらした前歯でちぎりながら、「さうだね」と云つた。
「私はね、もう、貴方と暮す女ぢやないのよ。あの時は戦争だつたから、あんな風になつたンでせうけど‥‥。私、貴方を友達みたいに好きなの。――よく考へてみると、私、心から男に惚れる道を知らないで今日まで来たみたいだわ。惚れるつてどんなのか、本当は判らないのよ。正直云つて、私、男のひとからお金を貰ふ時だけぞくぞくしちやふのよ。いけない女になつてるのね。これは世の中の女のひとと違ふンぢやないかしら。でも、私と一緒に働いてるひともさう云ふ気持ちがあるつて云ふのよ‥‥。こんな商売をしてたからでせうかしら‥‥。どんな厭なひとだつて、お金を貰ふ時は、とてもいゝ気持ちなの。別に貯めるつてわけぢやない。只、右から左に家へ送つてやるだけなンだけど、私つて、変りものなのね。――自分でも本当に厭な女だつて思ふわ‥‥」
直吉は、戦争中の浅草の待合で、里子が、芸者と兵隊の心中を話してくれた、なつかしい夜を思ひ出してゐた。
「ちつとも、貴方以外に好きなひとはないのよ。あつても、すぐ醒めてしまふの。こんな気持ちや体で、私、貴方に黙つてなに[#「なに」に傍点]するのは悪いンぢやないかしら‥‥。ねえ、私、貴方の事をどうしたらいいかつて思ふンだけど、判然り云へば、心が本当にこもらないのだし、千駄ヶ谷で家をたゝんだ時が、もうお互ひの終りだと思つてあきらめ合ふのがいゝと判つたのよ。――何時だつて、貴方の事は案じて心配してゐたンです。この気持ちは本当だわ。生きてかへつ
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