た。直吉は心の中に苛立たしいものを感じてゐる。淡い雲の裏側に、鋸型の黒い山影のやうな雲も浮き出てゐた。直吉は、広い海の上の島影を見るやうな気がした。ナホトカを出た船の上で、乾パンの屑を木箱の底であさつてゐた雀を、直吉はふとみつけて捕へた事がある。あまりの愛らしさに、誰か飼ふものはないかと、船員の部屋の方へ持つて行つたが、扉を開けると同時に、さつと二三人の船員の眼が鋭く兵隊の直吉を見上げて、こゝへ断りなく這入らないでくれと云つた。卓子の上には、皿に山盛の白い飯が並んでゐるのを、ちらと直吉は眼に掠めた。雀を飼つてくれませんかと云ふどころのよゆうはなかつたのだ。直吉は雀を持つたまゝ、甲板へ出て行き、ぢいつと掌の雀を観察した。不安に怯えて、雀は激しく息づいてゐる。時々眼をつぶる度に、小さい眼に白い輪がかぶさつた。にぶいオレンヂ色の太陽の反射を受けて、海は鉛色に光つてゐる。頬を刺すやうな冷たい海風に、掌の雀の羽根は素直に波を打つた。掌にうづくまつたなり雀はぢいつと忙はしく呼吸をしてゐる。柔軟な生物のあたゝかさが、直吉の荒んだ心をゆすぶつた。ぎゆつと握り締めて、一思ひに殺してしまひたい瞬間があつた。雀を握り締めたい衝動は、女を抱きすくめたい衝動にも似てゐる。消えかけた情熱を再び掻きおこされ、抑制の連続のなかに、すつかり灰になつたあらゆる慾望に、火を焚きつけられたやうな胸のときめきだつた。直吉の皮膚は熱くしびれた。――直吉は、里子に逢へる愉しみだけを考へてゐたのだ。東京は廃墟になつてゐると聞かされてゐたが、千駄ヶ谷のあの二階で、里子は、直吉の帰へりを待つてゐるものと空想してゐた。何年間かの生活の支へはどうしてゐるだらうかとは考へなかつた。出征した時のまゝの、部屋のありさまが、思ひ出されるだけである。出征の前夜、取り乱して泣いた里子のしみじみした姿だけが、直吉には船の中での心の支へでもあつた。
雀をそつと握り締めてみたり、ゆるめてみたりして、直吉は雀を熱心に観察するのだ。広い海の上をのろのろと船は内地へ近づいてゐる。黄泉のやうだつた長い捕虜生活から解放されて、いまこそ帰還するのだとは思ひながらも、直吉は、あまりの船脚の遅いのにまた、何処かへ運び去られるのではないかと錯覚した。直吉は躑踞んで、荒い風の吹く甲板に雀を放してやつた。雀は突差によろめき、飛翔の呼吸を計つてゐたが、一二度羽
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