瀑布
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)酒匂《さかは》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+挙」、第4水準2−88−28]を
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 橋の上も、河添ひの道も、群集が犇めきあつてゐる。群集の後から覗いてみたが、澱んだ河の表面が、青黒く光つて見えるだけで、何も見えない。そのくせ群集は、折り重なるやうにして、水の上を覗いてゐる。何だらうと云ひあひながら、前の方へ押し出されたものは、見てしまつた安堵で、後から押される人間の力を振り切つて、犇めく人の間を、ぐんぐんと外側へ出て来てゐる。「何です?」いやにおもねるやうな尋づねかたで、訊くものもある。直吉も、人の切れ目のなかに肩を入れて、ぐいぐいと押されて、前の方へ吸ひ込まれて行つた。埃に汚れた八ツ手の葉が胸元へばらばらと葉を弾き寄せる。それを掻き分けて、ぐつと木柵に凭れるやうにして、河底を覗き込むと白つぽいものが、汚れた水の上に浮いてゐた。靄のかゝつた水の上に、人間が腕組みをして、ぽかりと浮いてゐた。よく見ると、大柄な男が、眼をつぶつて、浮袋の上に身動きもしない。男の様子が妙だつたので、突差には、その場のありさまが判然と呑みこめなかつたが、浮袋のわきに、酒場の名前をペンキで書いた、白い板が浮いてゐるのを眼にして、直吉は、なるほど、生きてゐる人間の商売なのかと、吻つとすると同時に、その男の悠々とした、たゞよひかたが、ひどく気に入つた。向ひ側のA新聞社の窓々からも、人の顔が覗いてゐた。狭い河底の一点は、ぐるりに群集を置いたまゝ、森閑と静まりかへつてゐる。宣伝の為に、水の上に寝転んでゐる男は、蒼い化粧をしてゐた。まるで死人のやうに見えた。孤独で寄辺のない生きながらの骸は、ゆつくり水の上で動いてゐる。細長い浮袋には、長い縄がついてゐて、石崖の杭に結びつけてある。久しぶりに外出して、直吉はすさまじい世相を見たが、その水の上の生ける骸に対して、直吉は、誘はれるやうな反射を受けた。四囲に、わあつと広告塔や、電車や自動車の音がけたゝましく響かなかつたら、その河底の骸は、深い谷川を流れてゆく姿にも見えて、惨酷な風趣だつた。直吉は、すぐにも立ち去る気にはなれなかつた。何時までも眼を閉ぢ
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