てゐるので、見降ろしてゐる方で退屈だつたが、群集は仲々散つて行かない。S橋の上では、進駐軍の兵隊も、驚いて何人も河底を覗き込んでゐる。石油臭い河水の匂ひが、四囲にこもつてゐた。割合大きい顔をした男だつた。白いY襯衣の胸を拡げて、黒い洋袴をはき、素足だつた。眠つてゐる。おだやかな表情である。直吉の後の方で、日当が五百円から、千円位ださうだねと云つてゐるものがあつた。それにしても、水の上に寝転ぶ芸当はよういな仕事ではない。見てゐるものゝ眼に、この河底の人生は、異様に写らないではなかつた。直吉は暫く木柵に凭れて、男の動き出すのを待つてゐたが、男は仲々起きる気配もなかつた。捨て身な構へでもある。時々唇のあたりに、微笑の表情が浮きあがつたが、水の上の男は、衆人環視のなかの己れの姿に、冷笑してゐるのかも知れない。時々、河底から饐えた臭ひが吹き上げて来た。
直吉は、群集を押し返へして、その場所から、やつと抜け出る事が出来た。歩き出すと、四囲の騒音が、さつきの河底の人生とは、何のかゝはりもない。とらへどころなく茫漠としてゐる。知己にめぐりあつた親近さで、その男の生活の背景を空想してみた。大胆で、捨て身な考へになつて行く。勇気さへあれば、どんな事をしても生き抜けるのだらう。なるべく四囲は見ない方がいゝ。そのくせ、直吉は、路上の、現実の流れに、喰ひ入るやうな視線を向けずにはゐられなかつた。文明的なものと原始的なものが、不安もなく交流してゐる。不思議な世界に変り果てた、都会の夕景を眺めて、直吉は、呆んやりと足の向くまゝに歩いた。ネオン・サインが方々の建物にきらめき、忙はしさうに人々は流れてゐる。若い女も喜々として歩いてゐる。光つた自動車が、しゆんしゆんと直吉のそばを滑つた。よろめきかしいで、荷車を曳いて行く男もゐる。それぞれが、夜のねぐら[#「ねぐら」に傍点]に急いでゐるのだ。――直吉は時計を見た。里子と逢ふまでには、まだ三時間あまりの時間があつた。早く行つたところで、あのあたりをぶらぶらしてゐなければならない。此度は、二時間あまりを寒いところに立たされた苦味い経験から、なるべく、賑やかな場所で、時間を消費して行きたかつた。――四月が近いと云ふのに、馬鹿に肌寒い夕方である。直吉はきびすを返へして、銀座の方へ歩いた。疲れてゐた。薄暗い河の上の生ける骸が、直吉の瞼からしつこく離れなかつた。
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