女へ対する本能は、頭の中で暴れまはつてゐながら肉体は仮死状態に陥つてしまつてゐた。継母の精神分裂病に何処か似通うた戦争の被害だと、直吉はいまこそはつきりと思ひ知らされたのだ。衛生兵であつた直吉は、多くの戦争精神病も見て来たが、それは錯乱状態になつた兵隊のみを精神病と思ひ過してゐたに過ぎない。自分のやうなものはいつたい何と云ふのであらうかと、直吉は、耳の底にさうした患者の蜂の巣をこはしたやうな唸り声のするのを、うゝん、うゝんと聴いた。耳を振つてみる。戦場での色々な音がかすかに聴える。収容所でも年を取つた兵隊が激しいノルマに耐へられなくてうつ[#「うつ」に傍点]病になつて行き、ひどい取越苦労にとりつかれて、自殺したものも幾人かあつた。
 直吉は、厭な思ひ出を払ひのけるやうに、満々と水を張つた洗面器に、顔をつゝこんだ。しびれるやうに水は肌に沁みる。その水の中で、どれだけ息が出来ないかと、呼吸を抑制してみる。広告マンのあの眼のつぶり方が、瞼を走つた。呼吸の抑制は息苦しくなり、痛烈な孤独が直吉の瞼に涙となつて突きあげて来た。ざつと顔をあげて、濡れた顔を、汚れたハンカチで拭いた。眼が腫れぼつたく、瞼が赤い。洗面器の水をこぼして、直吉は暫く窓へ寄つて、外気をいつぱいに吸つてみた。まるで秋のやうに青い空である。物置の迫つた狭い庭の、二つ三つ並べられた植木鉢に、みせばや草がもう芽吹いてゐた。物置の隅に、柿の皮をむいたやうなねぢくれかたで、月経帯が干してあつた。
 直吉が二階へ上つて行くと、里子はいま起きたところと見えて、ぱあつと派手な水色の長襦袢に、伊達締めをきゆうきゆと音をさせて巻きつけてゐた。帯のない腰の線が馬鹿に大きくまるく見える。里子は何でもなかつたやうに、直吉に「何時頃かしら‥‥」と聞いた。
 部屋の中は、二つの寝床でいつぱいだつた。直吉は廊下の障子を開け、ぽかぽかと陽の射してゐるカーテンをたぐり寄せた。隣りは質屋とみえて新しく壁を塗つた倉があり、夜露のぎらぎら光つた屋根瓦に雀が忙はしく飛び交うてゐた。省線の音が地響して走つて行く。草履の音をさせて、昨夜の少女が上つて来ると、取り乱した蒲団を、何の表情もなくさつさとたゝみ始めた。着物を着終つた里子が、階下へ降りて行つた。廊下の硝子戸を開けて、直吉は欄干に凭れて暫く外を眺めてゐたが、淡い春の雲が小さい太陽を囲んで湧き立つて見え
前へ 次へ
全42ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング