根を風に向けて拡げ、すぐその姿勢のまゝさつとマストの方へ飛び去つて行つた。何処から迷ひこんだ雀かは判らなかつたが、かうした小動物の不思議な生命を、直吉は愛らしいものに思つた。あの時、海の上を流れてゐた雲が、いまこゝに立つてゐる自分をみとめたならば、雲は直吉に向つて、兵隊のなれの果てを不憫に思つてくれるだらうかと空想した。
まづい朝飯を食つて、直吉が大塚の駅に里子を送つて行つた時は、もう十時を過ぎてゐた。
「判はお前がつくつて、勝手に押していゝンだぜ‥‥。むつかしい事があつたら、またその時は出向いて行つてやる」
直吉は、昨夜から、里子にいくらかの金を渡してやりたいと思ひながら、出しそびれてゐた。慾張つて出したくないのではなかつたが、金を渡す機会を失つてしまつてゐたのだ。――直吉は省線で有楽町へ出て行つた。籍の事にこだはつてゐる里子の生活が、或ひは健実な結婚の相手をみつけたのかも知れないと思ひ、もうどうでもいゝ事だと投げやりになつて来る。――前田の事務所へ寄つて、今日来てゐる品物を分けて貰はなければならぬと、また、ぶらぶらと橋の方へ歩いて行つたが、群集の流れは昨日も今日もとゞまるところがなかつた。橋の上は肩をすれすれにして歩くやうな人の波である。前田の細君の出産祝ひを買ひたいと思つた。S橋の上から水の上を覗いたが、今日はあの広告マンは浮いてゐなかつた。汚れた石油色の水が、河底をたづな模様に流れてゐた。街の雑沓はひしめき溢れて、少しも形に変化がないやうだつたが、よく見てゐると、水が流れ込むやうに、次から次と人の顔は変つてゐた。公園寄りの橋のたもとには、学生姿のアルバイトが、ノートや大きい風船を手にして呆んやり立つてゐた。公園ぎはの交番では、腰にピストルのケースをさげた若い巡査が、四五人寄りあつて、ものものしい表情で話しあつてゐる。捕虜生活で考へてゐた程の廃墟ではなかつたのだが、何となく四囲は昔とは変つて来てゐた。三角くじを売る派手なペンキ塗りの小舎のまはりは、花吹雪のやうにこまかい紙片が散らかつてゐる。にぶい朝の太陽が黄いろい反射を照りかへして、珍しくぽかぽかと暖い。すれ違ふ男も女も、無意識に口辺に嘲笑的な小皺を寄せて歩いてゐた。その表情はどれもこれも、精神分裂の継母の表情に似ている。その通行人の群の中に、直吉はふつと、一緒の船で戻つて来た、兵隊の姿をみとめた。「あツ
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