て下されば、それでいゝつて思つてたンですよ。さうなの‥‥私つて、そんな女なの。貴方が戻つて来てからね、あゝよかつたつて思つたわ。この気持ちはよく云へないけれど、これでもう、私の願ひは済んだつて気がして、晴々しちやつたの――。どうせ、私は、自分でも、いゝ行末は持つてないつて思ふンですけど、そンな事はどうでもいゝのね。行末なンて興味がないわ。家へお金を送つて、それで月日が過ぎちやふンだわ。私、いまさら人を好きになつて、自分のすべてを掻き乱されるつて厭なのよ‥‥」
 女の露骨な本心を打ちあけられて、直吉は、里子の心に似通ふたものが、自分にもあるやうな気がした。人間らしい生々した思ひの光彩は、この数年のあわたゞしさに押しつぶしてしまつた気がした。里子は手をのばして、卓子の上の煙草を取つて火をつけると、それを口に咥へて美味さうに煙を吐いてゐる。直吉は里子のきやしやな、しつとりしてゐる指を眺め、随分長い別離だつたと思つた。眼の前に坐つてゐる女は、戸籍上の妻ではあつたが、今夜の出逢ひに交はした、刺すやうな眼光は、妻でも良人でもない。他人の疑視であつた。お互ひに長く相逢はなかつた生活の変化が、いまでは二人の眼の中に、少しの引力も呼びあはなかつたのだ。里子は直吉を見て、掠めるやうな当惑の色を眼にたゞよはせてゐた。
 金を貰ふと、ぞくぞくすると云ふ里子の心理は、一応直吉にも判らないではない。昔の金と、いまの金の値打ちも違つて来てゐるせゐもある。荒い世相で、貧窮に怯えるのも厭だと云ふ心理も、ないではなからう。直吉はソ連から、戻つて来て、舞鶴の港で、山盛に積んだ蜜柑を見た。誘はれるやうに、その蜜柑を売つてゐる処へ行き、十箇あまりの蜜柑を買つた。三十円であつた。三十円と云へば、昔、榎本印刷に働いてゐた頃の一ヶ月のサラリーである。よういでない終戦後の日本の経済面を直吉は知つた。一つのむづかしい問題にぶつかつた気がしたが、此頃では、コオヒイでも、砂糖でも売りに行けば、直吉は沢山の百円紙幣を無雑作に受取る事が出来た。それをまた無雑作にボストンバツクに押し込んで持ち帰へる時の、スリルに似た気持ちは、自分でも一種の犯罪をやつてのけたやうなぞくぞくした嬉しさになる。里子のやうに、家へ貢ぐ金にはしなかつたが、直吉はその金で、無雑作に食事をし、女を買ひ、その日暮しの根性に落ちぶれてしまつてゐた。狂暴なほど金
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