たやうに坐つてゐる。継母を殺す前に、この女から締め殺してやりたい太々しさになつた。分つてゐる。何も云はなくてもお前さんの心持ちは分つてゐると、直吉はまたどつかと胡坐を組んで三本目のビールに手をつけてゐた。いくら籍に這入つてゐてもこの女を自由にする権利はもうないにきまつてゐる。ひゆうと唸りをこめた風が庇に吹いてゐた。誰にも一生を捧げたわけではない。里子には里子の自由さがあるにきまつてゐる。何の世話もしなかつた代りに、里子も、あの時の娘らしさから、世の荒波に揉まれた一人前の女に成長してゐた。二人の別れてゐた距離があまりに長すぎてゐたし、二人は籍の上で結婚はしてゐても、離れて別々の苦労をして今日まで暮してゐたのだ。
「貴方、いゝ奥さん貰ふといゝのよ」
里子がぽつりと云つた。直吉は生いかの焼いたのをぐらぐらした前歯でちぎりながら、「さうだね」と云つた。
「私はね、もう、貴方と暮す女ぢやないのよ。あの時は戦争だつたから、あんな風になつたンでせうけど‥‥。私、貴方を友達みたいに好きなの。――よく考へてみると、私、心から男に惚れる道を知らないで今日まで来たみたいだわ。惚れるつてどんなのか、本当は判らないのよ。正直云つて、私、男のひとからお金を貰ふ時だけぞくぞくしちやふのよ。いけない女になつてるのね。これは世の中の女のひとと違ふンぢやないかしら。でも、私と一緒に働いてるひともさう云ふ気持ちがあるつて云ふのよ‥‥。こんな商売をしてたからでせうかしら‥‥。どんな厭なひとだつて、お金を貰ふ時は、とてもいゝ気持ちなの。別に貯めるつてわけぢやない。只、右から左に家へ送つてやるだけなンだけど、私つて、変りものなのね。――自分でも本当に厭な女だつて思ふわ‥‥」
直吉は、戦争中の浅草の待合で、里子が、芸者と兵隊の心中を話してくれた、なつかしい夜を思ひ出してゐた。
「ちつとも、貴方以外に好きなひとはないのよ。あつても、すぐ醒めてしまふの。こんな気持ちや体で、私、貴方に黙つてなに[#「なに」に傍点]するのは悪いンぢやないかしら‥‥。ねえ、私、貴方の事をどうしたらいいかつて思ふンだけど、判然り云へば、心が本当にこもらないのだし、千駄ヶ谷で家をたゝんだ時が、もうお互ひの終りだと思つてあきらめ合ふのがいゝと判つたのよ。――何時だつて、貴方の事は案じて心配してゐたンです。この気持ちは本当だわ。生きてかへつ
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