者になりたくて‥‥」
「もう、稼いでゐるの?」
「えゝ十日もしないうちにお座敷へ出ちやつたわ。私、三味線も踊りも、何も知りやアしないの‥‥」
里子はくすくす笑ひながら、洋品屋の前や、呉服屋の前に立ちどまつた。冨子のやうに骨太でなく、すらつとした肉づきだつた。たつぷりした髪の毛をひつゝめた桃割に結つて、セルロイドでつくつた飛行機の簪を前髪に差してゐた。
上野駅で別れて以来、一度も逢はなかつたので、里子の成長ぶりが直吉には感慨無量だつた。二人は瓢箪池へ出て、大衆的な広い喫茶店に這入つた。隅の方に席をみつけて、差し向ひに腰をかけたが、四囲のものがじろじろ見てゐるやうで、直吉は何となくそれが嬉しかつた。がつちりした胸元のまるみや、なだらかな肩の線が、如何にも初々しい。白い襟をきつちり引き締めて、胸に婦人会の裂地のマークを縫ひつけてゐた。赤つぽい髪だつたが、油で艶々してゐた。
「私ね、色んな事があつたわ。酒匂さんに云つたら軽蔑されさうなのよ」
「何? 何があつたの? かまわないから云つて御覧よ。軽蔑しやしないよ」
「でも、云へないわ。これだけは‥‥。酒匂さん立派におなりになつたわねえ。兵隊さんらしくなつてよ?――姉さんも死んぢやつて、私、随分淋しいの。‥‥だから、酒匂さんがなつかしかつたンですわ。時々、逢ひに来て戴くと嬉しいけど‥‥」
真紅なソーダ水を、ストローでぶくぶく泡立てながら、里子は色つぽく品をつくつて云つた。化粧のない蒼い顔だつた。襟首だけに昨夜の白粉の汚れが残つてゐたが、それがかへつて清潔に見えた。喫茶店を出て、二人は観音様へお参りして、団十郎の銅像の前の陽溜りに躑踞んで、暫く話をした。公園の立木はみな薄く芽をふき、澄み透つた青い空だつた。
「君に逢ひに行くには、相当金がいるのかね?」
「さうでもないわ。でも、酒匂さんは、そんな所に来なくてもいいのよ」
「でも、夜、そんなところで一ぺん、君に逢つてみたいね‥‥」
「私ね、もう、処女ぢやアないのよ‥‥」
突然、里子は直吉の耳に顔を寄せるやうにして、小さい声で云つた。直吉は赤くなつた。
「だつてね、いまの家のかあさんが、その客の云ふ事を聞いたら、ルビーの指輪を買つてくれるつて云ふのよ。田舎にも五百円送つてくれるつて云ふし、映画も毎日観に行つていゝつて云ふでせう‥‥だから、私、そのひとの云ふ事聞いちやつたンだけど
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