、その晩は、私は、はゞかりへ行つて随分長い事、ナムアミダブツ、ナムアミダブツつて拝んぢやつた。私、震へちやつたわ。とつてもおつかないと思つたンですもの‥‥」
 里子は散らばつてゐる線香の屑をひらつて、それを嚊ぎながら、真面目な顔をしてゐた。あるがままの出発点から、里子はかざり気なく酒匂に話したい様子だ。直吉は辛かつた。亡くなつた冨子との交渉の様々が、ぐるぐると頭に明滅した。
「ねえ芸者つてつまらないのね。これで、私、毎晩いやらしい事してるの‥‥。厭になつちやつたわ。面白くもをかしくもないのね。悪い事ばかりしてお金持つてるのね。そんなひと、ちつとも罰があたらないンだから不思議だわ。私、酒匂さんにとても逢ひたかつたのよ」
 昼過ぎになつてから、公園は大変な人出だつた。広い廻廊を、お参りの人達がぞろぞろ歩いてゐる。豆売りの店もなくなつてゐるのに、鳩の群が土に降りては、何かを探してついばんでゐる。赤い出征の※[#「ころもへん+挙」、第4水準2−88−28]をかけた背広の男が、子供を抱いて、直吉達のそばに来た。若い細君は棒縞のセルを着て、大きな風呂敷包を抱くやうにしてかゝへてゐる。子供に鳩を見せると見えて、父親は何か子供と無心に喋つてゐた[#「ゐた」は底本では「いゐた」]が、子供を降すと、子供のパンツの横から、小指程のものを不器用に引つぱり出して、「しいつ、しいつ」と唸るやうに云つた。子供は鳩を眼で追ひながら、きらきら光る噴水を、銅像の石の台に放出してゐる。

 その夜、直吉は寮へ戻つてからも、仲々寝つかれなかつた。里子の初々しい姿がしつこく眼の中をうろつきまはつてゐる。夢にも見た。――戦争は段々激しくなり、また再応召が来るやうな話だつたが、直吉は、そんな事はどうでもよかつた。里子のおもかげが、毎日息苦しく脳裡を去らなかつた。これが、ぼんのう[#「ぼんのう」に傍点]と云ふものであらうかと、直吉は里子に毎日のやうに手紙を書いてみた。別に出すつもりはなかつたが、手紙を書いてゐると気が安まつた。私は処女ではないのよと、小さい声で云つた里子の言葉が、直吉の胸に悩ましく押しつけて来る。里子の、その時のしどけない姿が空想された。浅草の花屋の芍薬を思ひ出して、直吉は友人の家の庭から、芍薬の花を貰つて来て、コツプに差して、机の上に飾つてみた。花など、一度も飾つた事がなかつただけに、その花の薄
前へ 次へ
全42ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング