れた様子もなく、「あのね、今夜、私、みんな貴方に話してしまふつもりで、泊る気になつたのよ‥‥」と云つた。いつもする癖で、舌で前歯をすうすうと吸ひながら、里子はちらと光つた藪睨みの眼で、直吉の方を見た。直吉は里子の云ひ出す話が、どうせいゝ事でないのは判つてゐたが、それでも、泊つて行くと云つてくれた言葉の奥に、幾分かの望みをかけてゐた。

 直吉が出征してから、里子は、直吉と世帯を持つてゐた千駄ヶ谷の家を半年ほどしてたゝみ、里子の郷里である、千葉の山武郡の、N町へ戻つて行つた。貧しい家だつたので、遊んでゐるわけにもゆかなくて、知りあひの世話で、綿工場へ勤めてゐたが、そこですつかり体をこわしたので、遠い親類にあたる、千葉市の図書館の近くにある、旅館と料理屋を兼ねてゐる家へ、手伝ひかたがた、病院通ひをしながら、体の保養につとめてゐた。段々空襲は激しくなり、何も彼も一時しのぎな生活が続いて来ると、自分の気持ちも荒み勝ちになり、浅草暮しの派手さが忘れられず、誰にともなく、また頼つてみたくなつてゐた。里子は出征した直吉の事を忘れたわけではなかつたけれども、去るもの日々にうとしで、心細さと荒んだ暮し向きには抗しがたく、時々酒を飲みに来る食糧営団に勤めてゐる、舞田と云ふ男とねんごろになつた。もう五十を二つ三つ出た男だつたが、大兵肥満の仲々明るい性格の男であつた。まだ二十二で、九人兄弟の次女に生れた里子は、直吉と世帯を持つて以来、一銭も郷里へ送る事が出来なかつただけに、舞田からの相当の手当ては、里子にとつては有難い金だつた。もともと里子の郷里では酒匂《さかは》直吉と里子の結婚は大反対で、直吉が出征するまぎはに、やつと籍をくれたやうな始末であつた。直吉は三十歳で出征した。――直吉は母を早く亡くして、父と弟との三人暮しであつたが、直吉が中学を出る頃、父は継母ともつかず、女中ともつかぬ若い女を家に入れてしまつたので、直吉は青年の潔癖から、中学を出るとすぐ家を飛び出して、友人の下宿に転げこんだ。そこから、苦学同様に早稲田の学院へ通つてゐた。丁度、日華事変が始まつた頃であつた。早くから転々と職を求めて、ほとんど父の厄介になる事もなかつたが、直吉は、牛込の若松町に住んでゐる頃、近所の喫茶店の女給だつた女を知つた。学生相手の小さい喫茶店で、この店では、二人ばかりの女給を置いてゐたが、或日、四五人の友
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