を出す事が出来たら、何とか里子を引きさらつてやつてゆけない事もないだらうと思つた。
「この家、電話ないンでせうね?」
 里子が顔を挙げて、電話があるかどうかを云ひ出した。額の狭い、眉の濃い里子の顔が若い。小さい鼻や、唇のきりつと締つた小さい顔が、不安さうに直吉の表情を、額ぎはでうかゞつてゐる。少し藪睨みの眼が、うるんで見えた。
「今日、前田の事務所へ寄つたら、税務署から差し押へが来たと云つてゐた。」[#「ゐた。」」は底本では「ゐた。」]
「あら、ぢやア、前田さん悄気ていらつしたでせう? 税金、大変なんでせう?」
「事務所を閉めてしまつた方が、かへつていゝやうな事を云つたがね。前田も細君が、近々、子供が産れるので、その方の金の工面が大変だと云つてゐた、世間も金詰りだね‥‥」
「銀座のあの場所は、人に渡るンですか?」
「いや、ありやア前田の事務所ぢやないンだから、あのまま出ちまへばいゝンだ。今度は自動車[#「自動車」は底本では「自動者」]のブロオカーでもしようかと云つてゐた。どうせ、夏になれば、アロハ襯衣がまた全盛だらうから、ネクタイの商売は駄目ださうだ」
「でも、前田さんは、世渡りが上手だから、何をしたつてやつてゆけますわ」
 軈て、丼飯、二三品のおかずの皿がついた膳とビールを、さつきの娘が運んで来た。火鉢はなかつたが案外寒くなかつた。直吉はビールを抜いて、里子のコツプにもついでやつた。腹が空いてゐたのでビールは腹に浸みた。――都会の片隅に、こんな旅館があり、飯やビールを運んでくれるやうになつた時世が、直吉には夢のやうだつた。里子は、肩掛けを取つて、ビールのコツプに手を出した。白い襟もとが直吉の慾情をそゝる。娘が火鉢を持つて来たので、里子が電話があるかどうかを聞いた。
「以前はあつたンですけど、戦争中に売つちやつたらしいンです。二丁ほど行つたら、市場の前に自動電話がありますけど‥‥」
 里子はもう少ししてから、電話をかけに行くと云つて、火鉢に手をかざし、ビールのコツプを唇もとへ持つて行つた。直吉は追ひかけるやうに、またビールを里子のコツプにつぎ、
「別れたいと云ふのは、手紙だけぢや判らないが、またいい相手でも出来たのかね。籍の問題なンか、どうでもいゝンだよ。書類さへつくつて来たら、判は何時でも押してやる‥‥」
 里子は固くなつて、ビールの泡に眼をやつてゐたが、別に悪び
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