に広げると、もう雨雲が破れて、雨脚が額に痛くなつた。
「オヽララ」
男は黒いレンコートを寒子の頭からかけると、体を抱くやうにして、橋の下へ逃げ込んだ。
「驚いた‥‥」
「大丈夫、すぐ通つて行く――パリの雨だけは僕は大好きだ」
二人は橋の下の下水管の上に腰をかけたまゝ石畳をバンジョウのやうにかきならす雨脚を眺めてゐた。
仔犬がビショビショになつて、二人の足の下にうづくまる。
河の流れが、急に乳色になつて早くなる。
「冷たい?」
不意に思ひがけない親切な言葉にとまどひして、寒子がフッと振り向くと、腕木のやうな大きな掌が寒子の肩を抱き、男の唇は寒子の雨に濡れた唇を封じてゐた。
暫時は、四ツの唇を静かに心に感じあつた。寒子は、長い間ほつて置かれた赤ん坊のやうに泪があふれると、胸を突きあげるやうに声が出た。
沢山、色々な言葉が洪水のやうになつてあふれるが、それは皆東洋の故郷の言葉だ。
二人が唇を離した時、もう雨脚は大分止んで、逃げ込んで来てゐた釣りの少年も、また河沿ひに歩いて行つた。
二人は、只沈黙つてゐた。沈黙つて、この感情の空気を吸ふより仕方がない。
雨が通り過ぎて行く
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