なら、もつと不遇な家に生れさせるといゝ。私は一年も二年もつかひきれない程の財産家に生れてゐるのだもの、何を好んで美しいものゝ無意義を感じなければならないのだらう、「楽しみですか?」と問はれた場合、はつきりと、大きな声で、「大変楽しみです」といふやうにしよう――。

 9 「|今日は《ボンジュール》!」
 眼鏡型の橋を描きかけてゐた時であつた。寒子の背を叩く白い大きな掌があつた。愕いて振り向いた寒子の眼の上に、あの澄んだ美しい髭の男があつた。
 だが、髭はもう綺麗に取り去られて、青年に近い美しさだ。
「まあ、しばらく‥‥」
「橋の上から貴女がよく見えた、――相変らずお楽しみですね」
「楽しみ‥‥」
 あんなに威張つて、「楽しみに描いてゐる」と云ふ言葉も、――また泡のやうに此男の前では消えてしまつたではないか。
 で、寒子はわざと話題を変へてロロはと聞くと、男は、笑つて、早い三、四年で、もうロロは巴里の屋根の下で眠つてるよと答へた。
 ものぐさなロロが、もうパリにはひりこんで、パリの街のどこかで眠つてゐる。――

 雨がパラパラと鼻の頭にあたつた。
 風が気早に、マロニヱの繁みを雨傘のやう
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