なつて問ひかけて行つた。
「その河下つて‥‥日本の何処のひとなのさ」
「河下さん、神戸でホテルをしてゐるんですつて、――もう大きい奥さんもあります。私大変悲しい」
 国情の違つたこの女の言葉が、何処まで本心なのか、まだ日の浅い巴里住ひの寒子にはよく呑み込めなかつたが、来る度に河下のしのびなき[#「しのびなき」に傍点]の話をするところを見ると、よほど心に残つた男であるらしかつた。

 2 窓を開けておく日が多くなつた。
 寒子は、夜の九時ごろまでも続くパリの長い白暮が好きで、モンパルナツスの墓場の間の小道をよく歩いた。
 割栗石の人道には、墓場の塀に沿つて、竜の髭に似た[#「似た」は底本では「以た」]草が繁つてゐた。マロニヱの花は花でまるで白い蟻のやうに散つて、実に女性的なたそがれが続く。
 さうして、――並木の小道がやつと途切れて電車通りへ出ると、寒子はポケットの鍵をぢやらぢやらさせながら、ミツシヱルの唄ふ城ヶ島の唄を何時か思ひ浮かべてゐた。
「ミツシヱルの処へでも遊びに出かけてやらうかしら‥‥」
 パリへ来て、別に友達もない寒子は、長い白暮を一寸もてあましコツコツ自分の靴音を楽しみな
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