、此河だけがよかつた。ホテルの經營者遠藤清一氏は、軈て庭にも野菜や花を植ゑると云つてゐられたけれど、むしろあの庭には白樺や楡《にれ》の木の亭々としてゐる方がふさはしいと思へる。
湯から上ると、窓をあけて明日登ると云ふ摩周の山々を見た。ピラオ山や雄阿寒岳《をあかんだけ》、雌阿寒岳《めあかんだけ》が、薄墨のやうにそれらの峰が遠く見える。その山の上に星も月もさえてゐた。月はまだ細かつた。東京を出て何日になるだらうと、不圖、そんなことを考へる。手紙の外は何も書かず、讀まず、その手紙もまるで日記ばかりで、その日その日の心を書きおくるだけで、不思議な位に空虚だつた。
床につくと、婦人記者のひとは色々自分の身上話を始めたが、私の想ひは、遠く外の事ばかりに心が走つてゐた。雨は何時までも止まなかつた。
翌朝眼が覺めた時は、河も向う岸も滴るやうな新緑で、山の木立の影さへはつきり見えるかのやうに晴れてゐた。障子をあけて此美しい空に茫然とした。
すぐ山へ行く支度にかゝると、ホテルの遠藤氏が御案内しませうと云つて來られた。かへつて恐縮な氣持ちであつたけれど、快よく、三人で宿を出る。便利なことに摩周の湖
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