仕方がなかった、別れた男との幾月かを送った此部屋の中に、色々な幻が泳いでいて私をたまらなくした。
 ――引越さなくちゃあ、とてもたまらない。私は机に伏さったまゝ郊外のさわやかな夏影色「#「夏影色」はママ]を、グルグル頭に描いてみた。
 雨の情熱はいっそう高まって来た。

「僕を愛して下さい、だまって僕を愛して下さい!」
「だからだまって、私も愛しているではありませんか……。」
 せめて手を振る事によってこの青年の胸が癒されるならば……。
 私はもう男に放浪する事は恐ろしい。貞操のない私の体だけど、まだどこかに、一生を託す男が出てこないとも限らない。
 でも此人は、新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸・青い眉・太陽のような瞳。あゝ私は激流のようなはげしさで、二枚の唇を、彼の人の唇に押しつけてしまった。

 六月×日
 淋しく候。
 くだらなく候。
 金が欲しく候。
 北海道あたりの、アカシアのプンプン香る並樹舗を、一人できまゝに歩いてみたい。

「起きましたか!」
 珍らしく五十里さんの声。
「えゝ起きてます。」
 日曜なので、五十里さんと静栄さんと、吉祥寺の宮崎さんのアメチョコハウスに行
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