唄を知っていますか。白秋の詩ですよ。貴女を見ると、この詩を思い出すんです。」
風鈴が、そっと私の心をなぶった。
ヒヤヒヤとした縁端に足を投げ出していた私は、灯のそばにいざりよって男の胸に顔を寄せた。燃えるような息を聞いた。たくましい胸の激しい大波の中に、しばし私は石のように溺れていた。
切ない悲しさだ。女の業なのだ。私の動脈は噴水の様にしぶいた。
吉田さんは震えて沈黙っている。私は油絵の具の中にひそむ、あのエロチックな匂いを此時程嬉しく思った事はなかった。
長い事、私達は情熱の克服に務めた。
脊の高い吉田さんの影が門から消えると、私は蚊帳を胸に抱いたまゝ泣き濡れてしまった。あゝ私にはあまりに別れた男の思い出が生々しかったもの……私は別れた男の名を呼ぶと、まるで手におえない我まゝ娘のようにワッと声を上げた。
六月×日
今日は隣りの八畳の部屋に別れた男の友人の五十里さんが越して来る日だ。
私は何故か、あの男の魂胆[#「魂胆」に傍点]がありそうな気がして、不安だった。
飯屋へ行く路、お地蔵様へ線香を買って上げる。帰って髪を洗うと、さっぱりした気持ちで、団子坂の静栄さんの
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